『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』を読む

 『磯崎新藤森照信の「にわ」建築談義』(六耀社)を読む。二人の建築家が毎年対談を行っていて、『〜の茶室建築談義』『〜のモダニズム建築談義』に続く3冊目。藤森は建築史が専門なので、前2冊については、藤森が歴史を語ることが多かったが、本書では磯崎の出番が目立つ。磯崎の博識が建築に限らず歴史、哲学に及んでいることがうかがわれる。しかも対談なので、著書における磯崎の難解さがやわらげられ、わかりやすく面白い内容になっている。
 春日若宮おん祭から始まって伊勢神宮や沖縄の御嶽が語られる。ついで称名寺の浄土庭園と瑞泉寺の石庭が比較される。瑞泉寺の石庭は夢窓礎石が臨済の庭として作った。浄土庭園では州浜が重要だと藤森が言う。州浜は日本独特なのだと。瑞泉寺の石庭は岩窟で、雪舟の描いた達磨の『慧可断臂図』と同じような場所ではないか。
 龍安寺の石庭を盆石や盆景だと言っているのもおもしろい。「昔の絵巻の坊さんたちが勉強している付書院の庭側に、盆景がちょこっと台に載せてある」。その「つくりもの」で大自然をやる。平安時代の公家がそれを見て歌を詠んだという。藤森がそう言ったのに、磯崎が「盆石として龍安寺の石は置かれている。これは正しい視点です」と答えている。藤森が「巨大盆石ですよね」と応じる。あの四角のプロポーションも盆石的プロポーションです、と。

藤森  いちばん大事な石は立てる。盆石もいちばん大切な石を立てる。石を立てるという意味は、以前にもお話したんですけれど、立つ前の「寝ている石」とは何かということです。自然の中では重力に従って、石は寝ますから、人には存在として見えていない。それが石を立てた瞬間にはじめて人の意志が加わり、不自然な状態になってはじめて石の存在が意識され、石として見えてくる。これが、人間が構築的な造形を最初にやった例ではないかと考えているんです。

磯崎  夢窓がつくったといわれる庭は、見立てられた風景を取り込んで、ミニマムの手が加えられただけでしょう。後は龍安寺以降、庭はまるごと虚構としてつくられ始める。観想の対象ですね。次にありえるのは、もう一度浄土庭園のときのように、庭の中に入っていく、寝殿造の前の庭の「遊び」につないでいくしかなかったんじゃないかなと思います。
 利休の頃の露地庭はちょっとまたタイプが違いますが、やはり通り抜けだから中を歩く。遠州の金地院の庭は中には入れないんですよ。白砂を敷いて海を表現していて、縁側の下でなんとなく直線なんだけれども。白いところでエッジがゆらゆらしているのは岸辺みたいなものですね。そして海を隔てた向こう側に島が二つある。ということは、一つの平面の構図としてでき上がっているんですね。大刈り込みをバックにして、金地院の庭は立体化している。龍安寺の場合は、まだ平面ですが、レリーフですね。ということは、空海曼陀羅はパターンとして上から見る。龍安寺もその段階。そしてそれを立体化させてきたのが、金地院の庭じゃないかと思います。
藤森  なるほど、金地院のほうが龍安寺より力を感じられるのはそのせいなんですね。

 藤森は庭の本質を塚本邦雄から教わったという。

藤森  私に庭の本質を教えてくれたのは歌人塚本邦雄さんです。昔、塚本さんと庭の話をしているときに、「庭は末期の眼で見るべし」という言葉が江戸時代にはあって、それが庭の本質だと言われた。庭は元気に活躍している人が見てわかるものじゃない。そういう人には必要ない。庭が本当にわかったり必要になるのは、死の直前。末期の眼で見ないとわからない。今から思うと、浄土庭園は末期の眼で見た景色ですよ。

 庭に関する対談がこんなに面白いとは! 二人がお互いを尊敬しているから優れた対談になっているのが分かる。以前読んだ淀川長治蓮實重彦の映画に関する対談もうすばらしかったが、あれも二人が互いを尊敬しあっているからだろう。茶室建築、モダニズム建築、にわ建築と続いてきたが、今年もこの続きを読ませてくれるだろうか。



磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談議

磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談議