山本義隆『近代日本一五〇年』を読む

 山本義隆『近代日本一五〇年』(岩波新書)を読む。山本は元東大全共闘代表で、その後駿台予備校で教師をしている。数年前に出版された『磁力と重力の発見』は各方面から絶賛されたが、何分全3巻と大著なので、手が出せないでいた。それが新書という形で出版されたので手に取ってみた。副題が「科学技術総力戦体制の破綻」というもの。
 幕末の黒船来航から始まった科学技術振興をたどり、現在までの150年間にどのような展開があったのかを分析し、結局太平洋戦争へと突き進み、敗戦でそれらがご破算になったとされていたが、実は根本的には変わらず原発開発まで続いていて、先の福島の原発事故にまで連続していたことを明かした小著ながら壮大な書だ。

 経済学の書には「日本産業のきわめて早期的な近代化は、このような殖産興業政策の成果であったといっていい。それはほとんど世界の歴史に例をみない成功だったといってよく、それゆえしばしば奇跡とよばれるほどのものだったのである」とある。その「成功」、その「奇跡」としての日本の急速な資本主義化は、先に述べた開国と近代科学技術習得開始のタイミングのよさとともに、国家の強力な指導と進取的な経営者の出現、江戸時代以来の民衆の識字率の高さ、能力も意欲もある士族の子弟がその能力を発揮せしめうる効果的な教育制度の形成、さらには在来の職人層内部からの「草の根発明家」の誕生、等々をその原因として挙げることができるが、それとともに、農村労働力の過酷な収奪と農村共同体の無残な破壊を不可欠の因子として遂行されたのであることを指摘せざるをえない。

 満洲国について、

 軍と官僚による統制経済の実験は、植民地で始まっていた。事実上の日本の植民地であった傀儡国家・満洲国が捏造されたとき、日本国内の各省から軍の要請に呼応した有能な若手官僚が参集した。なにしろ満洲国は、「国家」とはいえ、議会も政党もマスコミも存在しない軍と官僚だけの「国家」であり、関東軍が事実上の支配者で、軍を背景につけているかぎり、官僚はほとんど思いのままに政策を実施しえたのである。その官僚機構もできたばかりで、踏襲すべき前例や風通しの悪い官庁の壁もなく、自由に横断的組織を作り、相当に思いきった政策を実行することができた。彼らは、関東軍の参謀と提携し、合理的に経営されている国家の建設を目標として、強力な統制経済の実験に踏み出していったのである。

 満洲国実業部次長であった岸信介が取り仕切り、軍需工業の基礎となる鉄鋼、石炭などを拡大する5か年計画を制定した。その手法は近衛文麿の「新体制運動」に踏襲され、国家総動員に向けて挙国一致を呼びかけるものだった。
 さて、敗戦後、「敗北の原因」として「科学戦の敗北」「科学の立ち遅れ」がさかんに語られた。第1次大戦で、今度の戦争は長期持久戦・物量戦、すなわち長期にわたる資源の消耗戦となることを学んだはずの軍が、米国との開戦にあたっては、短期決戦で事が運ぶような主観主義に囚われていたのであり、制空権・制海権を事実上奪われた段階で、戦争経済が破綻していたのだ。総力戦であるかぎり、戦争の帰趨を決するのは自国領土内に保有している資源の多寡であり、資源の圧倒的不足を挽回しうるほど科学技術は万能ではない。敗因は科学戦以前の話で、軍人が敗北の責任を科学技術に押しつけるのは責任逃れに他ならない、と。

 しかし「科学戦で敗北した」という総括には、そのこと自体に根本的な問題がある。
 要するに、米国しか見ていないということだ。「科学戦に敗れた」と言うとき、日本ができなかった原爆製造に米国が成功したということを前提に語られている。つまり、中国は目に入っていない。実際には、蒋介石の国民党軍にせよ毛沢東共産党軍にせよ、経済力や技術力では日本にはるかに及ばなかったが、にもかかわらず、日本軍は中国大陸の泥沼の中で身動きがとれなくなっていたのである。しかし、「科学戦に負けた」と言うことによって中国にたいする敗北に目をとざした日本は、同時に、アジア侵略の政治的・道義的責任に目をつむったのである。(中略)
 こうして「唯一の被爆国」という、アジア諸国にたいする侵略戦争の加害者性を相殺するかのような、はては隠蔽しさえする、戦後日本の枕詞が生まれてきた。

 最後にこう総括する。

 福島の事故は、明治以来、「富国強兵」から「大東亜共栄圏」をへて戦後の「国際競争」にいたるまで一貫して国家目的として語られてきた「国富」の概念の、根底的な転換を迫っている。

 科学技術という側面から見た日本近代史、類書になかったユニークで魅力的な視点だ。