橋爪大三郎・大澤真幸『げんきな日本論』を読む

 橋爪大三郎大澤真幸『げんきな日本論』(講談社現代新書)を読む。二人の社会学者による日本の歴史に関する対談だが、古代史から明治維新直前までをテーマにしている。本書は3部に分かれ、はじまりの日本(古代史)、なかほどの日本(中世史)、たけなわの日本(近代史)となっている。二人が出典を気にしないでかなり自由に話し合っている。それで面白い展開に進んでいく。400ページある新書とはいえ、この分量で日本の通史を語るというのはかなり粗っぽいのも事実だ。とくに古代史は二人の専門外なので粗略なのは否めない。にもかかわらず読みやすい対談という形式で通史を語ってくれたのは貴重だった。

 教えられることも多々あった。古代、中国人が日本へ漢字を伝えたとき、「カミ」に対して「神」の字を当てた。それを橋爪が取り上げる。

橋爪  この「神」の字を持ち込んだところに、私は、大きな作為を感じるわけです。
大澤  「カミ」という語は、隅の影の部分をクマとかいうときの、「クマ」と同一語源だという説にぼくは説得力を感じていますが、いずれにせよ、「神」という字を持ち込んだところが大事だということですね。続きを話してください。
橋爪  どういう意味かというと、この「神」という字は、中国語ではランクが低いものなんです。日本ではカミ(神)以上の存在ってないでしょう。でも中国では、神というのは真ん中か、それよりちょっと下のランク。もっと上に「天」がある。
大澤  確かに。
橋爪  中国で皇帝は、天を祀るものであって、神は祀らない。
 この原則は、孟子の時代にはもう確立していたから、日本に来た中国人はふつうにわきまえていたはずでしょう。そういう漢字を熟知していた人びとが、日本人の信仰の対象に、「神」の字をあてた。「天」といわなかった。実際、天じゃなかったわけだし。
 さて、天皇は、ローカルな首長たちがめいめいの神を祀っていたのに比べれば、ランクが高いが、でもやっぱり、神を祀っている。
 ここで、日本の政治権力と中国の政治権力とが、もう根本的に違うっていうことが、表現されてしまう。
大澤  なるほど。
橋爪  天を祀るのと神を祀るのは、どこが違うか。
 天を祀る場合。天は先祖ではないし、そもそも人間ではない。天をいくら祀っても、天がこちらに好意的であるとは限らない。統治者としてのパフォーマンスが悪いと、「天命」が別の誰かに下って、自分はクビになってしまう。「革命」が起きる。これが中国の、標準的な政治の理解です。
 さて、神を祀る場合。神が、氏神であれば、祀る人の祖先が祀られる神になるのであって、自然の紐帯だから、断たれることがない。天皇家もアマテラスとか、その系統の神を祀っていて、それを祖先視しているんだとすると、神との関係は切れない。切れないのであれば、革命は起こらないから、万世一系になることができる。

 こんな調子で、話し言葉で興味深いことが次々に語られる。