村上春樹『女のいない男たち』を読む

 村上春樹『女のいない男たち』(文春文庫)を読む。とても良かった。村上春樹の長編は異世界を描くことが多いしあまり触手が動かない。けど短篇はとてもおもしろい。最近、川上美映子との対談でぼくは小説がうまいんだと語っていたらしいがその通りだと思う。ほとんど舌を巻くような巧さだと思った。
 「ドライブ・マイ・カー」も「イエスタデイ」も「独立器官」もすばらしい。「独立器官」の一節が身に染みた。

 すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき備わっている、というのが渡会の個人的意見だった。どんな嘘をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず嘘をつくし、それも大事なことで嘘をつく。大事でないことでももちろん嘘はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女でなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。だからこそ嘘をつくことによって、彼女たちの美しい良心が痛んだり、彼女たちの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは――特殊な例外を別にすれば――まず起こらない。

 4番目の短篇「シェラザード」は部屋に引きこもっている男性を定期的に訪れて食料などを調達し、また性的なサービスも行い、そのあと千夜一夜のように毎回ひとつずつ話をしていく人妻の物語だ。男はたぶん新左翼の活動家であったが、大きな事件を起こした後、組織の援助を得て長期間警察から隠れ住んでいるのだろう。
 彼女の話はこんな風だ。彼女が女子高生のとき、憧れていた同級生の男の子の家に空き巣に入る。癖になってしまって何度も空き巣を繰り返す。それがおそらく彼の母親に気づかれいつもの鍵の隠し場所が変わっていて、空き巣をやめる。彼女の話が続く。

「でも実を言うと、話はそこで終わらないの。その4年後だったかな、看護学校の2年生だったときに、私はちょっと不思議な巡り合わせで、彼と再会することになった。そこには彼の母親も大々的に登場するし、またちょっと怪談みたいなものも絡んでいるの。あなたに信じてもらえるかどうか自信はないんだけれど、その話は聞きたい?」
「とても」と羽原は言った。
「じゃあそれは次のときにね」とシェラザードは言った。「話し出すとかなり長くなるし、そろそろ家に帰って食事を作らなくちゃ」

 しかし、次のときはない。読者はここで放り出される。次の短篇「木野」も大変魅力的な話だ。木野は浮気を繰り返していた妻の浮気現場に遭遇し彼女と別れる。表参道の裏手に伯母がやっていた店を借り受けてバーを開く。ある時店に来た二人連れの男たちが木野にいちゃもんをつける。たまたま飲んでいた常連の男カミタが彼らを追い払う。その後店の周りで蛇を何匹も見かける。カミタが木野に一時店を閉めて遠いところへ行けという。そして旅先から毎週、月曜と木曜に伯母あてに絵葉書を出せという、木野の名前は書かないで。いわれたとおりに行動していた木野があるときカミタの指示を破ったときに不思議な事件が起きる。そのこともついに解決することなく小説は終わる。
 この「シェラザード」と「木野」の、物語が回収されないことに不満が募る。とくに「木野」に突然現れる異世界の影みたいなものが気にかかる。
 最後の短篇「女のいない男たち」は、この本のタイトルに対応する「表題作」のつもりで書いたとのこと。とても短くて他の3分の1程度だ。これはあまり面白くはなかった。
 たまたま今日の読売新聞の書評欄に、日本文学研究者のマイケル・エメリックが本書の英語版について紹介していた。英語圏の読者の評価が気になっていたので、書評やブログで反応を探った、とエメリックは書く。

 今回、読者の意識に特に関心を持ったのは、ここ数年にわたり村上作品の英語圏での評価が揺れている、という印象をもったからである。2011年の大長篇英訳『1Q84』を始めとして、2014年の英訳『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』、またその翌年にようやく英語圏でも日の目をみた初期の『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は、いずれも賛否両論だった。(中略)
 嬉しいことに『女のいない男たち』の英訳は絶賛されている。「完璧な短篇の標本」(インディペンデント)などという具合に。批評家の村上文学への眼差しが、一新された感がある。(中略)英語圏での村上文学の要となっているのは、彼の短篇小説なのかもしれない。

 村上はこれらの短篇小説をいずれも2週間で書き上げているという。優れた才能だと感嘆するとともに、長年作家活動を続けてきたことによる、大江健三郎の言う「ハビテート」効果でもあるのだろう。大江の言うハビテート=習慣は、長年の訓練の蓄積によって困難な仕事をも無意識のうちに成し遂げる力を身に着けていることを言う。