大沢文夫『「生きものらしさ」をもとめて』(藤原書店)を読む。生物物理が専門の名古屋大学・大阪大学名誉教授の生命論。毎日新聞に高樹のぶ子の書評が載っていた(7月9日)。
この本で一貫して著者が言いたかったことは「人間はゾウリムシと同じだ」ということ。様々な実験を通して、それを証明してみせる。
たとえ単細胞のゾウリムシにも人間と同じ「自発性」があることを。ゾウリムシは何かにぶつかったとき自発的に、まるで意思を持ったように方向を転換するのだから。
「ゾウリムシの”自発”とわれわれヒトの”自発”とをくらべてみたい。われわれが自発的に何かをするというときには、自分の自由意思が入っているように思う。しかしわれわれが散歩していて急に道を曲がろうとするときを考えると、ゾウリムシの場合とどうちがうか」
大沢は言う。
……実はゾウリムシの自発性とヒトの自由意思とは、隔絶したものではない。生物が下等から高等にずっと上がっていくときに、自発性について「段階はあるが断絶はない」。自発性、自由意思というのは、どこかの生きものまで自由意思はある、その下はないというような断絶はない。段階があるだけである。意識と心も同じでして、心はヒトだけが持っているということではもちろんない。サルもネコも心を持っている。もっと下の方で、ゾウリムシに心がないわけではない。
さらに言う。
意識・無意識のちがいは?
意識とは、その生きものが自分自身の全体の状態を総合して把握していることではないか。
単細胞の場合、状態の総合的把握のためのシステム(または装置)が、細胞のどこかに存在するのではないか。
多細胞生物の場合は、それをうけもつ特別の細胞(群)がどこかにあるかもしれない。
私は自分の内臓のことを考える。胃も小腸も飲み込まれた食物を消化する。胃液や消化液を分泌し吸収する。それは飲み込まれたものを食物として認識することではないか。認識して対応している。ゾウリムシの自発性も環境を認識し対応していることになる。ただ、ヒトと違うのは、ヒトには自己意識があることだ。自己を反省する意識がある。内臓にはそれがない。内臓は食物(環境)を認識しそれに対応するが、ヒトの意識と違ってそのことを反省しない。その点でおそらくゾウリムシも内臓と同じなのではないか。
下等生物にも(下等なりの)認識はあるが、高等になるに従い反省する意識が確立する。ヒトの意識は下等動物と断絶しているのではなく、段階があるだけなのではないか。そう考えた方がヒトに唐突に意識が発生したと考えるよりも、意識の発生を理解できるように思う。
大沢はほかにもいろいろ面白いことを考えている。
たとえば進化についていえば、”突然変異プラス自然選択”という原則は、広く承認され確立したといわれる。”獲得形質は遺伝しない”という原則についても同様である。しかしこれは、”今までの実験によれば”という話である。生命の歴史は何億年か、その間自然界で上の問題にかかわる“実験”は何回行われたか、その数に比べてわれわれヒトが行った実験の回数はあまりにも小さい。もし1万年の間に実験で1回でも獲得形質の遺伝がおこったら、生命の歴史は長いから、世の進化論の定説はひっくり返ってしまう。結論をそう簡単に出してしまうわけにはいかないのではないか。
科学研究の言葉は英語を使うことが多い。それが世界に通用するからだといわれている。そのことに対しても大沢は反論して、科学研究でも日本語を使うべきだと言う。
どういう言葉を使っているかは、科学研究の内容に影響する。たとえば日本で大学院コースを終えてドクターになった直後、アメリカの大学の研究室に留学した、研究分野はほとんど変わらなかったにもかかわらず、研究スタイルは完全にアメリカナイズされていた。ふだん話したり討論したりすることばはうまくなっていたが、本人はそのことに全く気がついてなさそうであった、ということがある。研究の対象を、あるいは考え方を的確に簡略化したことばを彼らは発明する。そのことばを議論の中で、論文の中で積極的に使う。若い日本人研究者はそのことばの意味をしっかり理解せずにそのまま盛んに使う。暗にそれは彼らの考え方にのっかったことを意味する。日本人はまず日本語で自分の考えを創出し表現し、それにもとづいて適当な英語をあてる。適当な英語がなければ自分で創ればよい。
相手のことばにのっかって、そのまま彼らのルートの上で研究していることが多いと思う。そうすると、マラソンでいうと彼らの決めたルートをいっしょに走り、第一グループの中にいること、しょっちゅうテレビに映っていることに満足してしまうようになる。研究者として仲間に認められているが、基本的な独創性に乏しくなる。ことば作りの上で負けている。
研究のことを考えるのは、あくまで日本語によってである。そこに日本文化の歴史の蓄積がある。科学研究の中で出てくる創造性も、日本文化に根がある。(後略)
また、相互のやりとりがある方が、個性が伸びる。個体差が大きくなる。特徴が目立ってくると言う。大沢は一時ある芸術大学で非常勤講師をしていた。その時の経験を語る。
……油絵科の学生たちは、お互いにえらくディスカッションをします。偉い先生はいないんです。いないというと悪いけれども。そうするとお互いの、一人一人の絵に非常に個性が出てくる。日本画科は超偉い先生が一人頑張っておられまして、一方的に教育が来ます。お互いがあまりディスカッションをしないと、お互いの絵が一遍に似てきます。それは人の問題でゾウリムシの話ではないですが、バクテリア、ゾウリムシでそういうことはわかっています。
とても有意義な本だった。
- 作者: 大沢文夫
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2017/04/26
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