今野真二『北原白秋』を読む

 今野真二北原白秋』(岩波新書)を読む。副題が「言葉の魔術師」で、白秋に対して当たり前の副題だと思ったが、実はもっと強い意味があって、今野の専門が日本語学となっていて、文学者白秋を分析するというよりは、白秋の言語を分析するという姿勢らしい。もっともそうは言っても、白秋は詩人、歌人、作家であるので、白秋の言語を分析することは白秋その人の分析に近いだろう。
 まあ、数多ある白秋論に付け加えるのだから何か新しい切り口がなければと考えたのだろう。私にとっては白秋論は初めてだったから伝記の部分も含めて大いに参考になった。
 白秋の詩も短歌もあまり読んだことがないと思っていたが、さすが国民詩人、引用された作品を結構知っていた。


 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面(とのも)の草に日の入る夕(ゆふべ)
 君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ


 これらは白秋の代表作だろうし、童謡の「城ヶ島の雨」や「あわて床屋」、「赤い鳥小鳥」、それに「雨がふります。雨がふる。」の「雨」など、本当に国民詩人・歌人の名にふさわしい。
 「君かへす〜」について、道浦母都子が「甘い逢瀬の後なのであろう」と述べているそうで、私もそう思っていた。有名な不倫の歌と誰もが思っていた。それにしては泊めた翌朝、彼女を玄関までしか送らないのはなぜだろうと思っていたが、不倫相手の人妻は隣家の婦人だったと知って、納得したばかりだったが、白秋の息子の北原隆太郎が『父・白秋と私』のなかで、この歌はもともと「雪しろき朝の舗石さくさくと林檎噛みつつゆくは誰が子ぞ」という歌だったと述べ、「私小説的な告白や報告、自然主義的文学観とは、父の芸術観は全く異なっている」と述べている、と今野が紹介している。しかし初出はそうだったかもしれないが、後朝の別れを色濃く反映させているのは事実だろう。
 今野はみごとに言葉を操る「言葉の魔術師」白秋の謎を、当時出版されたばかりに『字海』や数々の辞書を読み込んで、新しい言葉の使い方を研究していたと分析する。まず言葉を決めて、その表記の漢字を探っていったのだと。
 白秋の言葉は美しく見事だ。同時に多くの論者が指摘するように思想が希薄だ。その点では現代の谷川俊太郎を連想する。谷川に強い興味を引かれないように、白秋も改めて読みたいという気は起きない。
 むかし、広告の仕事をしていたとき、白秋の詩を園芸用殺虫剤の広告に使いたいと思ったことがある。

 薔薇ノ木ニ
 薔薇ノ花サク。


 ナニゴトノ不思議ナケレド。

 すでに白秋は亡くなっていたので、著作権を管理している団体に許可を求めたが、白秋の作品を広告に使用することは一切許可していません、という返事だった。死後50年の著作権が切れる1年まえだったから、あれは1991年のことだった。