『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』を読む

  デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ『ポパーウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』(ちくま学芸文庫)を読む。最初に書いてしまうと、羊頭狗肉だった。ポパーウィトゲンシュタインの大激論とあり、ちくま学芸文庫から出版されているので2人の哲学を論じていると期待してしまった。そうではなかった。著者2人はBBCのジャーナリストで、ポパーウィトゲンシュタインの対立をジャーナリスティックに面白おかしく綴っている。まあ、哲学を論じていると思ったから羊頭と考えた私の早とちりなんだけど、初めから犬の肉と思って読めば面白く興味深い読書だった。とくに両者を始めバートランド・ラッセルも含めて、一人の伝記と違って徹底的に相対化している。偉大な哲学者たちが全員その行動面ではなく思想面で相対化されて描かれているというのは新鮮だった。普通伝記では描かれる主人公をときに神格化までする傾向があるのだから。
 1946年、ケンブリッジ大学で毎週行われていた哲学の教授と学生の討論会にカール・ポパーが招かれて講演した。議長はウィトゲンシュタインだった。バートランド・ラッセルの顔もあった。ウィトゲンシュタインは当代きっての哲学者と圧倒的な人気があった。ポパーウィトゲンシュタインを論破して英国哲学界に打って出ることを画策していた。ポパーが話し始めて間もなくウィトゲンシュタインが横やりを入れた。2人の激しいやりとりになり、ウィトゲンシュタインが暖炉の火かき棒を手に取って、おそらく発言とともにそれを突き出したりしたのだろう。そのことが後日、「2人がまっ赤に焼けた火かき棒を手にしてたがいに自説を譲らなかった」と噂になった。本書の原題も「ウィトゲンシュタインの火かき棒――2人の大哲学者のあいだでかわされた10分間の議論」となっているという。すぐにウィトゲンシュタインは部屋から立ち去った。そのことを後日ポパーが伝記で勝ち誇って書いているという。しかし、本書の著者たちはウィトゲンシュタインが負けて立ち去ったのではなく、相手にするのを嫌がったのだろうと結論づけている。
 このエピソードがあまりにも面白いので中心に据えられているのだが、本書はウィトゲンシュタインの伝記とポパーの伝記、それに当時のヨーロッパの哲学界の動向とナチスが政権を獲得していく過程でのヨーロッパ社会のエピソードたっぷりの歴史が書かれている。ウィトゲンシュタインが大金持ちだったことは知っていたが、ドイツに残った姉2人の安全を確保するために、財産の一部である金1.4トンをナチスに提出したなんて知らなかった。グラム4,000円で換算すれば56億円にもなる。
 ポパーの哲学についてはわりあい詳しく触れられているが、さすがにウィトゲンシュタインの哲学については概論にとどまっている。私も20代前半のころ『論理哲学論』を読んでみたがさっぱり分からなかった。
 本書がどんなに面白おかしく書かれているかの例を一つあげる。

 あつまりの晩、H3号室には(プレイスウェイトの2人目の妻が)いたかもしれない。(……)とても風変わりなこの女性は、結婚前の名字でマーガレット・マスターマンとよばれていた。イギリス政府の自由党の閣僚チャールズ・マスターマンの娘で、(……)。モラル・サイエンス・クラブの元秘書だったマーガレット・マスターマンは、夫が出席する会合やセミナーには姿を見せる習慣があった。いつも窓際に腰かけるのが習慣だった。ある証人によると、彼女はショーツをはかずにスカート姿でとおすので有名だったという。おそらくこの証人は想像力が過剰なのだろう。彼女が何度も脚を組みかえるので、火かき棒のできごとには注意が散漫になっていたと語っている。

 こんなどうでもいい些末なことが繰り返し語られているので、本書は450ページを超えている。おそらく半分の分量で必要な記述は済んでしまうだろう。でもそれだからこそ、ヨーロッパやアメリカでベストセラーになったのだろうけど。
 いや、当時の歴史を知るための恰好の歴史書ではあると思う。とても勉強になった。ウィトゲンシュタインの哲学について知りたければ巻末に30冊余の日本語文献が掲載されている。ポパーについてはさほど興味をもてないが。


ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎 (ちくま学芸文庫)

ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎 (ちくま学芸文庫)