竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』を読む

 竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』(角川ソフィア文庫)を読む。副題が「ヘーゲル哲学再考」とある。角川ソフィア文庫の解説から、

大量生産、大量消費、大量廃棄を特徴とする現行の資本主義は、格差の拡大、資源と環境の限界を生んだ。この矛盾を克服する手がかりは、近代社会の根本理念を作った、ホッブス、ルソー、ヘーゲルの近代哲学にある。国家=権力の廃絶ではなく、人民権力=市民国家を成立させることで、万人の人間的「自由」を実現する。今、これをいかに国家間へ、世界大の原理へと拡大できるか、哲学的観点からわかりやすく考察する。近代哲学、とりわけヘーゲルは「自由の相互承認」という重要概念を示した。こうした観点から、誤解にさらされてきた近代社会の本質を明らかにし、巨大な矛盾を生む現代資本主義をどう修正すべきか、その原理を探る。

 本書は2009年に『人間の未来』という題名でちくま新書として発行されていた。その時の副題が「ヘーゲル哲学と現代資本主義」というものだった。内容にほとんど変更はない模様。『人間の未来』という題名では売れなかったと思う。今回全く題名を変えたのはそれへの反省だろう。
 本書はきわめて刺激的な内容でとても興味深いものなのだが、私の力不足でここに簡略に紹介することができない。ぜひ各自で読んでみてほしい。
 竹田が美術について語っているところが美術関係者には参考になると思われた。まずヘーゲルの「事」が紹介される。

……「事」とは、つまり、人々の関係しあう行為のうちに生み出される「自由」の本質それ自体を指している。またそのような関係のありよう(「事そのもの」のゲーム)の中で、人間の自由の本質の現実性が創り出されるのだ。

 そして、

「事そのもの」ゲームの構造を象徴的に表現するのは「芸術表現」である。このテーブルには、たとえば小説、音楽、美術などの作品がおかれる。個々のジャンルは一定のゆるやかなルールをもち、作品はこの慣習的ルールに則って競われる。芸術表現にとってもっとも本質的なのは、創造する「天才」ではなくむしろ「批評」(批評家ではなく)の存在である。一般的には、天才の創造力が美の規範を、つまり美の秩序の基準(スタンダード)を作り出すと考えられるが、しかしじつは、不特定の人々の美的感受性による批評こそが、天才とそうでないものの秩序を作り出すのである。この構造は本質的なものだ。

 さらに、

 だが、人々の「美的感受性」はいったい何に根拠をもつのだろうか。それは、公共のテーブルによって隔てられている人々の多様な個的生活、その中でのさまざまな人間関係上の価値をその源泉とする。芸術表現の「事そのもの」において決定的なのは、何が「ほんとう」の美であるかを求める人々の行為(=事)自体が、美や善の普遍性を、つまり、美や善の「ほんとう」についての秩序が存在するという信憑を、絶えず育て上げるということである。
 表現における美の本質は、――つねに生じる不信と同伴しながらも――そこに人間的な「よいもの」、「美しいもの」が現実化され表現されているという暗黙のそして共通の信憑にある。したがって美の普遍性への信憑は、人間的な価値の秩序についての信憑と一体のものなのだ。善や美は、「イデア」のように”実在”するのではなく、「ほんとう」を創り出そうとする関係のゲームの中でだけ、秩序として創出される。まさしく「自由」の本質がそうであるように。

 「 不特定の人々の美的感受性による批評こそが」「美の秩序の基準(スタンダード)を作り出す」のであり、「美は、「イデア」のように”実在”するのではな」く、「「ほんとう」を創り出そうとする関係のゲームの中でだけ、秩序として創出される」という。哲学者の美術論として傾聴に値すると思われる。

人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)

人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義 (ちくま新書)