クッツェー『恥辱』を読む

 池澤夏樹が、くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』(共和国)についての書評を毎日新聞に書いている(2016年7月24日)。そこにクッツェー『恥辱』(ハヤカワ文庫)についての言及があった。

……その後で本論に戻ってクッツェーの代表作『恥辱』における肌の問題が論じられる。
 ここのきっかけもまたボードレール。「セックスの問題はかなり上手く解決してきた」という52歳の男が定期的に親しく買っている相手との行為を記述するところに「豪奢で悦楽に満ちた」というボードレールの詩の一節が嵌め込まれている。
 この相手のソラヤは遠回しながらはっきりと有色の女性とされている。あるいはソラヤが消えた後で主人公が関係を持つ女子学生の名前がメラニーなのも有色を示唆している。この名前、語源はギリシャ語の「黒」なのだ。
 『恥辱』は白人上位・男性上位の古い価値観が同じように古い文学観と共に崩れてゆく物語である(主人公は英文学の教授という設定)。(後略)

 メラニーの語源がギリシャ語の「黒」だという。メラニン色素はたしかに黒を表している。これを読んで『恥辱』を持っていることを思いだした。6年前に買って、未読の棚に入れてあった。で、読んで見た。
 そのクッツェー『恥辱』である。作者は南アフリカ出身、1940年生まれの男性作家。言語学南アフリカアメリカで学び、イギリスの権威あるブッカー賞とフランスのフェミナ賞を受賞し、本書で史上初の2度目のブッカー賞を、また2003年にノーベル文学賞を受賞している。
 小説の前半は華麗とも言える女性遍歴が語られる。しかし教え子のメラニーと関係を持ったのちスキャンダルに遭遇し、大学での職を失い、田舎に一人住む娘のところに転がり込み、その後は娘ともども悲惨な事件に巻き込まれる。題名の「恥辱」の由来だ。
 これがクッツェーの代表作と言われブッカー賞ノーベル文学賞を受賞したというのが最初はよく分からなかった。解説で野崎歓が書いている。

 つまり白人中心主義的な枠組みによる、旧来の支配・被支配関係のありかたが根底から解体されてしまった現代の世界において、その先にありうる秩序とはいったい、どのようなものなのか、という巨大な問いが浮上するのである。

 『恥辱』とは欧米の植民地問題、旧宗主国と植民地の住民との関係の逆転をテーマにしたものだった。日本の旧植民地、台湾や朝鮮との関係にほとんど無自覚な読者=私に『恥辱』の切羽詰まった問題意識がよく読み取れなかったのはお気楽な日本人だから仕方なかったのだろう。
 何といっても、クッツェーアパルトヘイトの国だった南アフリカ出身の作家なのだから。そのことは何よりも重要な関心だったに違いない。しつこく言うが、お気楽な日本人である私とは違って。
 さて、主人公は2度の離婚経験がある。娘は最初の妻との間に生まれている。その最初の妻ロザリンドとの電話で、彼女から言われた台詞が私には印象的だった。「最後は、それこそ、ゴミ箱をあさる哀しいおじいさんになってしまうわよ」。主人公は52歳なのだ。「おじいさん」だって! 私より16歳も若いのに・・・。いや、「最後は」って今じゃないってこと? でもそれは今の私だろう、残念ながら。
 訳文にところどころ難しい言葉や、ルビがなかったら読めない漢字が使われている。初めて見た言葉もあった。そういえばタイトルの『恥辱』も硬くて難しい言葉だ。もっと一般的な訳語はなかったのだろうか。もっとも原題の英語をそのままカタカナにして良しとしているおバカな映画の観客とちがって、文学の読者はさすがにそれは受け入れないだろうが。


恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)