金井美恵子の毒舌を堪能する

 金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ PART II』(日本文芸社)を読む。例の如く毒舌満載のエッセイ集。

宮沢賢治の童話に『どんぐりと山猫』というのがあって、山のなかにうじゃうじゃ住んでいるどんぐりたちが誰が一番エライかと争いをはじめ、山の判事として裁ききれなくなった山猫が、村の一郎という子供に知恵を借りて争いを丸く収め、一郎はそのお礼に黄金のどんぐりを1升もらって帰るのだが、家に戻ってみると、それはただのどんぐりだった、という話である。(中略)
 鏡花賞以来、地方の文学賞というのが大変に盛んらしく、あれこれと批判めいた言葉を眼にしたり耳にしたりもする。そうした話が出た折りに、鏡花賞の受賞者と選考委員を前に、私は冗談のつもりで、『どんぐりと山猫』のあらすじを紹介してから、宮沢賢治賞というのがあれば、正賞は黄金メッキのどんぐりがいいのじゃないか、その意味はむろん「どんぐりの背くらべ」ということで、それはどの文学賞でも同じことだけど、と大いに受けるつもりで言ったのだったが、誰も笑わず、シンとして座が白けた。

 ついで書評を集めた章から、いとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』(新潮社)について、

 東京の地上げされた土地を2年間の契約で不動産会社から借り、空間プランナーというのかトレンダーというのか職業はよくわからないが、そういったふうの青年男女が、〈デゼール〉あるいは〈ムスリム・トーキョー〉と命名された、劇画風というか『ブレード・ランナー』の超縮小再々生産とでもいった都市を作り、そこへ謎の中年男の予言者があらわれる。
 ポスト・モダンのポップス版の売れっ子だったいとうせいこうの2作目の〈小説〉である。〈小説〉としての出来は、とりたてて語るほどのことは何もないのだが、小説という出身も曖昧ならそれ特有の形式さえも曖昧な、とりあえず「言語商品」と呼びたい分野に、また別の名前を付けることが出来るとしたら「マスコミ関係者の吹き溜り」と呼ぶべきなのではないだろうか、という程度の感想は、誰でもが持つだろう。

 さらに丸山健二の『されど孤にあらず』(文藝春秋)を取り上げる。

 文芸雑誌では小説以外の文章を書かない(それは小説家のダラクに通じるから)とも高らかに宣言する文学マッチョ丸山健二の、新聞や料理雑誌や牛乳振興会のパンフレットといった文壇とは無関係、と丸山が判断したと思われるメディアに発表したエッセイを集めた本書は、まさしく血湧き肉躍る読み物である。
 牛乳振興会のパンフレットで、彼は「牛乳対酒」という対立が「文学」には存在する、と書いている。酒は小説家に「少女趣味的なイマジネーションを授け」はするかもしれないが、しかし牛乳は「小説家に孤独を寄せつけない力を与え、集中力と持続力を与え、エネルギッシュな、パワフルな発想へと導いてくれる」というのである。ほんとォ? と、牛乳も顔を赤らめてイチゴミルクになってしまう。
 また「栄養と料理」誌には、18.5キログラムの減量に成功したことについて、大したものだと皮肉を言う人々に「そうさ。これくらいやれなければ自由業はとても勤まらんよ」と高らかに宣言することが語られているのだが、この幸福な文学マッチョは、18.5キログラムもの余分な贅肉を付けていた時の自分の肉体の醜悪さについてはひとことも触れず、減量の成功=意志の強さ(子どもの頃から富んでいた自立心と独立心)であると「本気」で信じてしまうらしいのだ。(中略)
 本書には著者の写真も挿入されているのだが、あれっ、なんでここに水の江滝子の写真が載ってるわけ? と、一瞬錯覚した読者もいたのではないだろうか。なかなかこれで、小説家が持つセルフ・イメージというのもむつかしいものである。

 金井美恵子が、頼みもしない通販から趣味の悪い高価なコートが代引きで送られて来たりすると書いていたが、そういう卑劣な嫌がらせをする奴の気持ちも分からないではない。まさか、いとうせいこう丸山健二とは思わないけれど。
 金井はこのほか、島田雅彦丸谷才一開高健らに関しても手厳しい。反対に好意的な作家たちは、大岡昇平中上健次石井桃子吉田健一山田風太郎らだ。とくに蓮實重彦には圧倒的な信頼を寄せている。
 丸谷才一『女ざかり』に対しては13ページもの批評が書かれている。この小説はまだ読んでないので、読書後に金井の評と比べてみよう。