渡辺淳一『わたしの女神たち』を読んで

 渡辺淳一『わたしの女神たち』(集英社文庫)を読む。渡辺が40年近く前に書いたエッセイ。これがつまらなかった。だいたい私は渡辺の小説が好きでなくて、初期の『阿寒に果つ』くらいしか読んだことがない。本書でも渡辺は「女神たち」と言いながら、処女か処女でないかで女性を分けたり、女性に対する偏見が甚だしい。女性について男性目線で書き綴ったエッセイが多数ある吉行淳之介と比べても、その姿勢、その文体ともに渡辺ははるかに劣ると言わざるを得ない。
 ではそんなにつまらないエッセイをなぜ読み続けたかと言えば、読みはじめた本は最後まで読むという私のモットーからだ。カミさんが言った。あんたはなんでも決めるんだから。娘が言った。父さんはアスペルガーだから。どちらも間違ってはいないが。むかし1970年代に高く評価された岩波新書の経済学の本が3冊あった。なるほどいずれも面白かった。ただ、そのうちの1点、前半部分が図表ばかりで退屈だった。よほど読むのをやめようかと思ったが我慢して読み続けた。ところが後半に至って、前半の図表を基に説得力のある議論が展開していった。読むのをやめなくて良かったと思ったのが、読みはじめた本は最後まで読むというモットーを採用した理由なのだ。しかしその後、中断しなくて良かったと思える本はほとんどなかったが。ただ本書の第3章の「奇蹟の恢復」という項がそこそこ面白かった。渡辺がインターンを終って医者になりたての頃、北海道の湧別炭鉱病院に勤務していたときの経験を書いている。急に往診を頼まれて患者を訪ねると、30前後の婦人が朝から激しい腹痛で、顔面は蒼白、腹部は膨満し、ただ低くうめくだけで、いわゆる急性ショックの状態だった。血圧はほとんどゼロに近い。内臓が破裂するか、大出血を起こしたに違いない。御主人の話では妊娠4か月だという。渡辺は整形外科医で新米の医者なのでおろおろしていると、ベテランの看護婦が適切な指示のヒントを与えてくれる。大量の輸血を開始し、血圧が100近くまで恢復してきた。渡辺は産婦人科の本を開き、にわか勉強で子宮外妊娠の手術をすることになった。
 お腹の中は血の海だった。膿盆で血をかき出し、噴き出す血を除いていると丸く黄色味を帯びた臓器が見えてきた。しめたと思った僕はとっさに、「子宮だ」と叫ぶ。するとベテランの看護婦が、「違います、膀胱です」と言った。
 この手術の詳細を綴った部分がほかと違って面白かった。
 渡辺淳一『阿寒に果つ』では奔放な女子同級生に翻弄される主人公=渡辺?を描いている。その同じ女性について野見山暁治も『とこしえのお嬢さん』(平凡社)で描いていた。それを紹介した本ブログを引用する。

 苗字の書かれない純子という女性の思い出も印象的だ。札幌でやった絵画講習会でモデルが倒れた。受講生の女の子が「あたしを描いて」とぴしりとポーズをとった。その後も、純子が誘ってきて、またふっと逃げたりする。上野の自由美術の会合で彼女の先生をもてあそんだりもした。その先生は純子のことを牝犬と呼んだ。

 次の夜、牝犬は、暗いアトリエの中で、これがそんなにいいことなの、みんな、夢中になってることなの、と悶えながら、満たされない欲望への不審感に苛立った。男はみんな騙すのね。今年中に必ず仕返しをしてやる、必ず。
 冷めた顔になり、純子は二度と現れなかった。

 その純子は阿寒湖の雪の中で死んでいた。そのことを書いたのが渡辺淳一『阿寒に果つ』だった。この本は「妊娠小説家」渡辺淳一で唯一読んだ本だ。渡辺は純子と高校の同級生だった。同級生なんか簡単に手玉に取れただろう。野見山さんと渡辺淳一がこの子を接点につながっていたのか。(妊娠小説とは斎藤美奈子が言った言葉。男にとって都合が悪い妊娠を描いた小説)。

野見山曉冶『とこしえのお嬢さん』を読む(2014年10月30日)



わたしの女神たち (集英社文庫)

わたしの女神たち (集英社文庫)