深沢七郎『言わなければよかったのに日記』を読む

 深沢七郎『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)を読む。はじめ、こんなに面白そうな作品をどうして今まで読まなかったんだろうと思った。読み始めて2ページ目で以前読んだことを思い出した。読んだことは思い出したが、内容は思い出せなかった。調べてみるとちょうど4年前に読んでいた。
 深沢はどこまでが本当のことで、どこまでがとぼけているのか分からない。作家の正宗白鳥を訪ねた折り、

 椅子に腰かけて話をして下さるのを聞いているうちに気がついたのは、銘酒で有名な菊正宗の本家の跡取り息子にでも生まれた人ではないかと思った。そんなふうな、大家の家柄の生れの人だと気がついた。そう思えば先生の生れた家には白鳥が住んでいるような池があるような気がしてきた。念のために、
「先生は酒の……、菊正宗の……?」
 と伺うと、
「ボクはそんな家とは何の関係もないよ」
 とおっしゃった。今、考えてもまずいことを云っちゃって、と悩んでいる。

 石坂洋次郎とは対談をして知り合った。深沢が『笛吹川』の小説を書いている時に、山梨の石和の家に笛吹川の月見草を植えたりしていた。たくさん芽が出たので石坂先生のお宅へも植えさせてもらいたいと思って持って行った。石坂に相談もしないで持っていって、玄関の前に立ちながら、こんなものを持ってきてしまったと気がひけた。塀の外から中を覗こうとしたが塀が高くてダメだった。そこで道路のはじの大きな松の木に登って様子をうかがうと庭がよく見えた。だがすぐに犬が気がついて吠えだし、女中さんが駈け出してきた。石坂も出て来て見つかってしまった。木の上に向かって「そこにいる方は、何をしているのですか?」と声をかけられた。顔を見られないように遠くの方に目をそらせて、「あの……、鯉のぼりが……」と云って、あとは黙ってしまった。石坂が去ったので、木を降りて女中に顔を見られないように、反対の方へぐるっと塀を廻って玄関の前に行って、ベルを押した。女中には気がつかれたが、「先生の奥さんが女中さんに目バタキをしているのである」。「(作家の家の人は、奥さんでも、やっぱり話のわかる人だなあ)と思っていると、女中さんも作家の家の人である。すぐにのみこんで、あとを何も云わないのだからボクは運がよかった」。
 こんな調子で書き綴られていく。どこまで天然でどこまで計算しているのか分からない。おそらく本当に木訥なのだろうと想像した。ただ、おかしいことはおかしいのだが、おかしさの底が深くない。だから4年前に読んでいても、その内容のほとんどを忘れてしまったのだ、と自分の記憶力の悪さは棚に上げて言ってしまう。
 この天然で木訥な作家が、取り巻きたちには時に非常に厳しく接したことを、親しく付き合った嵐山光三郎が書いている。いったん気に入らないことがあると、突然絶交を言いわたされて、二度と許してはもらえないという。嵐山光三郎『桃仙人−小説深沢七郎』(中公文庫・ちくま文庫)には、深沢のそんな厳しい一面も紹介されている。


言わなければよかったのに日記 (中公文庫)

言わなければよかったのに日記 (中公文庫)

桃仙人―小説深沢七郎 (ちくま文庫)

桃仙人―小説深沢七郎 (ちくま文庫)