加藤周一『日本美術の心とかたち』を読む

 『加藤周一セレクション3 日本美術の心とかたち』(平凡社ライブラリー)を読む。加藤の主著『日本文学史序説』が日本の文学と思想の体系化であり通史だったのに対して、同じことを日本美術について行ったみごとな仕事だ。加藤はあとがきで、本当はこの本文をさらに補足して『日本美術史序説』という本にまとめたかったとあるが、このままで実に完成度の高い日本美術史になっている。
 縄文土器から始めて岸田劉生藤田嗣治まで、たった一人で体系的に書ききっている。なんという深い教養だろう! しかもそれらを語る文体が感嘆するばかりに簡潔で明晰なのだ。
 例えば、江戸時代の水墨画池大雅与謝蕪村、浦上玉堂について、

 彼らの仕事は、明清画の伝統的な写実主義にくらべると、あるいは空想的、あるいは抒情的、あるいは抽象表現主義的であって、はるかにそれぞれの画家の個性を示す。しかし明末清初の大胆な超現実主義者たち、石濤や八大山人にくらべれば――彼らはその多くを見ていなかったらしいが――、「イメージ」の破格、構図の独創性(殊に「トリミング」)、激烈な感情移入において、またはるかに及ばない。日本では、「伝統」が弱かったから、それぞれの画家がみずからの好みを自由に表現し得たと同時に、戦って突き破るべき束縛が弱かったから、過激な、戦闘的な、孤独で燃えるような世界の構築には到らなかったのだろう。石濤や八大山人は、明朝の宗室の裔であり、亡国のなかで、彼らの悲哀と誇りを表現した。しかし18世紀の江戸では、誰でもが体制を信じていた。そして、一方では石門心学の倫理的主観主義を生み、他方では文人画の藝術的主観主義を生んだ。

 富岡鉄斎について、

……水墨における写実主義雪舟が代表したとすれば、鉄斎は水墨における表現主義を代表するといえるだろう。(中略)
 しかし、鉄斎においておどろくべきことは、ただ「文人画」の伝統の枠を超え得たことではない。さまざまな様式で、さまざまな対象を描いたことである。洋の東西を問わず、画家が自分自身の世界を発見する以前の、模索の時代にではなくて、大成した後の比較的短い時期に多くの様式を試み、そのすべてに成功したのは、先に鉄斎、後にピカソPicasso以外にはほとんどないだろう。

 琳派の功績について、

 「アール・ヌーヴォー」に大きな影響を与えた徳川時代の意匠は、どういうものであったか。その基本的な型の大部分は、琳派が創りだしたものである。あるいは琳派の様式のもっていた装飾的要素が、大衆化し、徳川時代の職人の間に浸透していったとき、誰でも用いることのできる意匠となり、型となったのである。俵屋宗達は偉大な画家であった。本阿弥光悦は完璧なし方で生活を藝術化した天才であった。彼らは大衆に影響を与えたのではなく、100年の後、尾形光琳に影響をあたえた。というよりも光琳を生みだしたのである。光琳は、その後の徳川時代の美学を決定した。その美学が、いくらか誇張していえば、世紀末の西洋で、「アール・ヌーヴォー」に化けたのである。

 酒井抱一と鈴木其一について、

 光琳が町人文化即自であったとすれば、抱一は町人文化対自である。それは元禄と文化文政とのちがいである。しかし殊に町人藝術家の仕事と、町人になった武士の画業とのちがいでもあるだろう。抱一の弟子、鈴木其一には、さまざまの工夫、新しい思いつきといったものがある。しかしその画面に、抱一の神経のふるえ、剃刀の刃のように鋭くて脆い感覚、ほとんど歴史的な時間の流れの現在感は、ない。酒井抱一だけが、あたかも徳川時代そのものの終りを予感するかのように、江戸の秋空の夕暮のように、琳派の藝術的創造力の、最後の光芒を放っていた。

 鈴木基一については、明らかに抱一に劣ると感じていたが、このように明確に理解してはいなかった。抱一の『夏秋草図屏風』は傑作だった。
 喜多川歌麿春画を語って、加藤はそれを哲学にまで展開している。

歌麿の代表的な春画作品では)そこには男女しか存在しない、というよりむしろ、男女の行為しか存在しない、−−別の言葉でいえば、それがすべてであり、それが世界である。その意味で、愛の行為が全世界に、したがって時間に、超越するのである。それは単なる快楽ではなくて、愛し合う男女の間にしか起こり得ない超越的経験であろう。そういう経験へ向って、歌麿は人を引きこもうとする。それは感情移入の方向であり、(鈴木)春信の対象化の方向とは、全く異なる。もちろん絵を見る人がそれだけで超越的経験をもつことはないだろう。しかし歌麿の目標は、そういう超越的空間における二つの主体の一体化を表現することであったにちがいない。相手と一体化しようとする二人の人間は、相互に相手を対象化しない。また相互に相手を対象化しない人間関係は、少くとも歌麿にとっては、そこにおいてしか成立しなかったのであろう。画家の立場からいえば、彼らを眺めることが問題ではなく、彼らに無限に接近することだけが問題である。かくして『歌枕』のなかの数枚は、はるかに時代を隔てて、15世紀の禅僧一休宗純の『狂雲集』のなかのいくつかの七言絶句と呼応する。一方は絵画において、他方は文学において、愛の行為の超越性を語り、その意味で哲学的であって、全く情緒的でない。けだし日本文化においては稀有の例であり、殊に情緒纏綿たる三味線の音がその空気を満たしていた18世紀末の江戸においては、未曾有のできごとであった。

 加藤は「相手と一体化しようとする二人の人間は、相互に相手を対象化しない」と書くとき、サルトルの哲学、間主観性=対他主観性に関する悲観的な人間観に対して強く批判的であったのに違いない。
 加藤は、そのほか芝居にも茶道にも建築についても深い理解と卓抜な見解を披歴する。
 500ページを越える大著ではあるが、何度でも読み返したい名著だ。加藤の『日本文学史序説』に次ぐ代表作だろう。