『増補版 誤植読本』を読む

 高橋輝次 編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫)を読む。印刷過程で必要な作業「校正」、しかし校正ミスはつきものだ。作家や編集者、校正者などが、自分の校正ミス、誤植について書いている。執筆者53名、これは書き下ろしでなく、編者たちが過去の文献から集めたものだから、実によく目配りして編集したものだと感心する。さまざまな誤植が紹介されていて、面白くもあり勉強にもなり反省もさせられる。
 中村真一郎が、名前を間違えられた経験を書いている。

 私自身に関する誤植で最もひどいのは、名前を間違えて印刷されることである。今迄に既に何度となく、雑誌の目次などに「中村慎一郎」という名前を発見して、衝撃を受けた。人に原稿を依頼しておいて、その原稿の筆者を別人にされてはたまったものではない。それが大概は、女性関係の雑誌だというのは、編集者に何か含んでいるところがあるのだろうか。
 尤も、私の名前が「慎一郎」となったのは、石原慎太郎氏が文名を一世に馳せた直後からである。手紙などでは、慎一郎様というのはいくらもあるが、これには原則として、返事は出さないことにしている。私宛でない郵便物にいちいち答える義務は感じないのである。
 但し、時々は「慎一郎」あてに、為替や小切手も送られてくる。そういう時に限って、私は「慎一郎」の代人になってやることにしている。

 扇谷正造も講演以来の手紙が「扉谷正造」あてに来たときは、講演を断っていると書いていた。私の名前は「正好」だが、手紙の宛先が「正女子」様となっていたり、「正子」様となっていたこともある。電話で名字を中曽根の曽根に原っぱの原ですと伝えたら「中曽根原」様となっていたことがある。仏の私は別段腹も立てない。
 大岡信は印刷の組版工が間違えたのを、むしろこちらがいいと、詩を書き換えた経験を語る。マリリン・モンローが亡くなったときの追悼の詩「マリリン」

君が眠りと目覚めのあわいで/大きな回転ドアに入ったきり/二度と姿を見せないので/ドアのむこうとこちらとで/とてもたくさんの鬼ごっこが流行った/とてもたくさんの鬼ごっこが流行ったので/君はほんとに優しい鬼になってしまい/二度と姿を見せることが/できなくなった/そしてすべての詩は蒼ざめ/すべての涙もろい国は/蒼白な村になって/ひそかに窓を濡らさねばならなかった//*//マリリン/マリーン//ブルー

 大岡の原稿では「すべての涙もろい口は」になっていたという。それが植字工が間違えて「すべての涙もろい国は」となった。大岡はこの方が方が面白いと「国」にしたという。「蒼白な村」もたぶん「蒼白な唇」くらいだったのを「国」に合わせて変えたらしい。誤植によって詩がよくなった例としてあげられている。
 坪内稔典寺田寅彦の句が、いつの間にか変わっていて、でも原句より変わった句の方がいいと言っている。二つの句を並べる。

栗 一 粒 秋 三 界 を 蔵 し け り


粟 一 粒 秋 三 界 を 蔵 し け り

 2番目の「粟」が原句、寺田が書いたのはこちら。でも岩波書店寺田寅彦全集では「栗」になっていて、岩波文庫寺田寅彦の随筆集『柿の種』では「粟」になっているという。坪内は誰かによって変更された栗の方がよいとする。そして、

 粟から栗への変化。それを読者による推敲、あるいは添削と考えたい。俳句は、たとえば句会でしばしば直される。直された句はそのまま作者の句になる。それが昔からの俳句の伝統だ。つまり、俳句は作者だけが作るのではなく、作者が作り読者も作るのだ。そういう共同の創作が俳句なのである。

 校正と誤植に関わるエピソードが、文字どおり満載されている。とても勉強にになったし面白かった。編著者の高橋が「あとがきに代えて」で、校正に関する参考書として、長谷川鉱平『本と校正』(中公新書)をあげている。ただ、だいぶ以前から絶版になっているという。私も昔、編集の仕事を始めたときこれで勉強したのだった。とても良い参考書だと思う。


本と校正 (1965年) (中公新書)

本と校正 (1965年) (中公新書)