朝日俳壇の句

 12月24日付け朝日新聞の俳壇に、金子兜太選で神戸市の瀬 正子の句が載っている。


挫 折 て ふ オ ブ ジ エ は 斯 く や 蓮 枯 る る

 枯れた蓮の葉は破れ茎は茶色に変色して途中折れている。池一面に大きな葉をそよがせていた姿からこれは何という敗残の形か。枯蓮と聞けば敗荷という言葉を思い出す。広辞苑を引く。

はい・か【敗荷】(ハイガとも。「荷」はハス)秋になって風などに吹きやぶられたハスの葉。秋夜長物語「三秋の霜の後敗荷衣薄く」

 石川淳荷風批判の文に「敗荷落日」がある。「荷風」は蓮に吹く風の意だろうから、「敗荷落日」は晩年の荷風を破れたハスの葉になぞらえている。辛辣な評だ。
 その「敗荷落日」の冒頭と末尾。

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。
おもえば、葛飾土産までの荷風散人だった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実情については、わたしはうわさばなしのほかはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなく、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。
(中略)
 むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味はなにも無い。したがって、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは、かつての妾宅、日和下駄、下谷叢話、葛飾土産なんぞに於ける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。

 これは石川淳安吾のいる風景・敗荷落日』(講談社文芸文庫)に収録されている。
 石川淳は『文学大概』(中公文庫)にも荷風について簡単に書いている。

……すなはち、編集部の好意あるすすめにも係らず、ただちに鴎外を再論する気持ちになれない所以である。
 すでに鴎外を再論しないとすると荷風といふことになる。しかし、目下わたしが荷風集中で心ひかれるのは「妾宅」一篇である。そして、荷風は「妾宅」にかぎると、たつた一行書いてわたしの荷風論はしまひになる。

 ならば晩年の荷風を挫折と見ることもそう外れてはいないだろう。


安吾のいる風景・敗荷落日 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

安吾のいる風景・敗荷落日 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)