パウル・ツェランの詩

 読売新聞の書評欄に『パウル・ツェラン全詩集(全3巻)』(青土社)が刊行されたと菅啓次郎が紹介している。

……パウル・ツェランといえば20世紀ドイツ語詩の巨星として必ず名前があげられる人だが、1992年に出た中村朝子訳3巻本『全詩集』の改訂新版が刊行された。50歳を迎える前にセーヌ川に身を投じた詩人の作品数はさほど多くないが、この3巻本にはたしかに永続的価値が刻みこまれている。短い時間で理解できる部分はほとんどない。表現は晦渋でイメージの推移は追いがたく、謎と死の雰囲気が全体にわたって立ちこめる。だがたしかに何かが感じられる。手が届かない遠くを詩人がめざし、声が届かない何かに呼びかけているのが感じられる。その何かがわからないのがもどかしいが、およそ詩について難解だの平易だのというくらいばかげた議論もないだろう。(後略)

 私もパウル・ツェランの薄い詩集を持っている。飯吉光夫訳『罌粟と記憶』(静地社)だ。訳者あとがきによれば、これがツェランの処女詩集ということだ。この中に36行からなる重要な詩「死のフーガ」が入っている。とても難しい作品だ。しかし、これがナチスによるユダヤ人の虐殺をテーマにしていると知れば、難解ながらも深く興味をそそられる。

   死のフーガ



夜明けの黒いミルク僕らはそれを晩に飲む
僕らはそれを昼に飲む朝に飲む僕らはそれを夜に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない
一人の男が家に住むその男は蛇をもてあそぶその男は書く
その男は暗くなるとドイツに宛てて書く君の金色の髪マルガレーテ
彼はそう書くそして家の前に歩み出るすると星が輝いている彼は口笛を吹いて自分の犬どもを呼び寄せる
彼は口笛を吹いて彼のユダヤ人どもを呼び出す地面に墓を掘らせる
彼は僕らに命令する演奏しろさあダンスにあわせて


夜明けの黒いミルク僕らはお前を夜に飲む
僕らはお前を朝に飲む昼に飲む僕らはお前を晩に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
一人の男が家に住む蛇どもをもてあそぶその男は書く
その男は書く暗くなるとドイツに宛てて君の金色の髪マルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない


彼は叫ぶ大地にもっとシャベルを入れろこっちの奴らそっちの奴ら歌え演奏しろ
彼はベルトの武器に手をのばす彼はそれを振りまわす彼の眼は青い
もっと深くシャベルを入れろこっちの奴らそっちの奴らもっと演奏しろダンスにあわせて


夜明けの黒いミルク僕らはお前を夜に飲む
僕らはお前を昼に飲む朝に飲む僕らはお前を夜に飲む
僕らは飲むそしてまた飲む
一人の男が家に住む君の金色の髪マルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート彼は蛇をもてあそぶ


彼は叫ぶもっと甘美に死を演奏しろ死はドイツから来た名人だ
彼は叫ぶもっと暗くヴァイオリンをひけそうすればお前らは煙となって空に立ち昇る
そうすればお前らは雲の中に墓を持てるそこなら寝るのに狭くない


夜明けの黒いミルク僕らはお前を夜に飲む
僕らはお前を昼に飲む死はドイツから来た名人
僕らはお前を晩に飲む朝に飲む僕らは飲むそしてまた飲む
死はドイツから来た名人彼の眼は青い
彼は鉛の弾丸(たま)を君に命中させる彼は君に正確に命中させる
一人の男が家に住む君の金色の髪マルガレーテ
彼は自分の犬を僕らにけしかける彼は僕らに宙の墓をおくる
彼は蛇どもをもてあそぶそして夢みる死はドイツから来た名人
君の金色の髪マルガレーテ
君の灰色の髪ズラミート

 菅啓次郎は続けて書いている。

……一篇の詩はひとつの孤立した実在物として読めばそれでいいが、両親を強制収容所で失ったユダヤ人としてのツェランの生涯を少しでも知ることが彼の詩を読むのに計り知れないほど役立つとはいえそうだ。そのためには中村訳『全詩集』とともに、関口裕昭のきわめて充実したツェラン研究3部作を勧めたい(『パウル・ツェランユダヤの傷』慶應義塾大学出版会ほか)。

 多木浩二が1993年にセゾン美術館で行われたアンゼルム・キーファー展のカタログに、キーファーとツェランのつながりを書いていた。

……キーファーの作品には、ホロコーストの起こりえた20世紀の世界が生みだした芸術だと言わざるをえない現代性がある。直接的な例として、画面に藁をはりつけた《君の金色の髪マルガレーテ》、珍しく人物が描かれた《君の灰色の髪ズラミート》は、ともにパウル・ツェランの詩「死のフーガ」の詩句から取られているし、その詩は強制収容所からきているのだ。


パウル・ツェラン全詩集 第?巻

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パウル・ツェランとユダヤの傷―“間テクスト性”研究

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