半藤一利『荷風さんの昭和』を読む

 半藤一利荷風さんの昭和』(ちくま文庫)を読む。昨年読んだ同じ著者の『荷風さんの戦後』(ちくま文庫)の姉妹編。おもに戦前から戦中の荷風のことが『断腸亭日乗』を参照しながら書かれている。半藤は荷風が好きなので、視線が暖かく読んでいて好ましい。半藤も江戸っ子なので、薩長閥の政府や軍部を嫌う荷風と価値観を共にしている。
 昭和16年12月8日、日本は真珠湾を先制攻撃しアメリカに宣戦布告する。戦果はめざましいものがあった。中島健蔵本多顕彰小林秀雄亀井勝一郎横光利一も、みな興奮し感動して戦争開始を祝っている。ひとり荷風だけが何の感慨も抱いていない。

 さて荷風さんである。この人の国家観もしくは戦争観というものが、明確かつ鞏固な全面的な近代否定の上に立っていることは、すでに何度も書いた。その文明批評は、あまりに時代に背を向けすぎていて、たしかに現実にたいする有効性を、まったく欠いているものであった。としても、残されたこの日の日記をみると、これまた当然すぎるくらい当然なのであるけれど、やっぱり三歎し脱帽するほかはなくなってくる。
《12月8日。褥中小説浮沈第1回起草。晡下土州橋に至る。日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり》
 これが全文である。その前日までの記述と文句ないほど変化なし。翌日がまた素敵である。
《12月9日。くもりて午後より雨。開戦の号外出でてより近隣物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟々たり》
 さらに12日がとびきりにいい。(後略)

 さて、昭和19年12月3日は荷風の誕生日であった。荷風は日記に書いている。「今日は余が66回目の誕生日なり。この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ」と。66歳は数えだから満65歳、漁色が尽きたという。私はもうすぐ64歳の誕生日だから、漁色の尽きるまであと1年か。
 ついで隅田川にかかる吾妻橋について半藤は書く。

 ところで、この橋がなぜ吾妻橋とよばれるようになったのか。原名大川橋が江戸市中から吾嬬権現への参道にあたる、そこからその名がついた、という説がいちばん有力なのである。権現社の祭神は弟橘媛。『日本書紀』の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)の夫人で、相模灘で身を投じて夫の危難を救った。英雄は足柄峠でそのことを偲び、思わず「吾嬬はや」(ああわが妻よ)と一言。その叫びからこの神社の名前がつけられた。(中略)
 これほど由緒あるこの神社は、亀戸駅から明治通りを北へ、北十間川にかかる福神橋を渡ってすぐ右に曲がったところにある。密集した人家にかこまれて、川に面してぽつんととり残されたように寂しく鎮座ましましている。とても浅草観音にまけないくらい繁盛した古い歴史のある神社とは思えない。ちなみに墨田区立花というこのあたりの地番は、実は例の破壊的住居表示改悪のとき、橘としたら当用漢字にない。やむなく同音のやさしい2字に分解したものだという。馬鹿馬鹿しくて話にもならぬ。

 私もこの吾嬬神社について紹介したことがある。
吾嬬神社(2006年12月24日)
 この「墨田区立花」については荒川洋治が詩に書いている。「立花一丁目も石を投げろ」って書いていたと記憶するが、探しても見あたらない。
 半藤一利荷風さんの戦後』については、ここで紹介した。
半藤一利「荷風さんの戦後」を読む(2011年11月21日)

荷風さんの昭和 (ちくま文庫)

荷風さんの昭和 (ちくま文庫)