バッハマン『三十歳』を読む

 インゲボルク・バッハマン/松永美穂 訳『三十歳』(岩波文庫)を読む。本書の書評が池内紀によって毎日新聞に紹介された(2016年2月21日)。池内はバッハマンを1年年下のギュンター・グラスと比較しつつ紹介する。2人とも詩人として出発している。グラスは1959年、長篇小説『ブリキの太鼓』を発表し、ベストセラー作家となる。バッハマンは1961年、短篇集『三十歳』によって表現世界に衝撃を与えた(池内による)。グラスはのちにノーベル賞を受賞し、バッハマンは47歳で謎めいた死をとげた。バッハマンの『三十歳』について、池内が書く。

 表題作のほか6篇を収め、ゆるやかな連作として読める。語り手は「ぼく」「わたし」「彼」「ぼくたち」とさまざまだが、つねに喪失がテーマとなっている。失って、もはやもどらないもの。幼年期ですらあやしいのだ。(中略)
 清新な新訳で、早くに逝った異才を読んで気がつく。なんと現代的な心理状況が印象深く語られていることだろう。つまりは微妙な欠落感であって、誰もがいつも抱いているのに、これをめぐって書かれることはきわめて少ない。(中略)語り手は30歳にして末期の目をもち、すべてが過去の残像風景と似てくる。単文を主としたキレのいい文体は、音楽でいうモルトエスプレシーヴォ、「もっとも表情ゆたかに」。そんなふうに作者は書き、そんなふうに訳者は訳した。

 このバッハマンについて関口裕昭も『翼ある夜 ツェランとキーファー』(みすず書房)で詳しく書いていた。第2章の副題が「バッハマンをめぐるツェランとキーファー」と題されている。バッハマンが21歳のとき、27歳のツェランと出会っている。二人は恋人同士になる。しかし、ツェランはパリへ行き、そこでのちにツェランの妻となる版画家ジゼル・レトランジェと恋に落ちる。バッハマンは捨てられた。さらに数年後二人は偶然に再会し、恋が再熱する。それもやがて醒めていったが。ツェランの詩を重要なモチーフにしていたキーファーは、バッハマンの詩も引用し作品に取り入れている。
 そのバッハマンの短篇集『三十歳』を読んだ。昔、白水社の「新しい世界の文学」シリーズで生野幸吉訳で出版され、それを読んだことがあった。その生野訳も、新訳である本書も面白いとは思えなかった。あとがきによれば、「グルッペ47」でバッハマンともつながりがあったと思われるヴァルター・イエンスは、本書中の短篇「ウンディーネが行く」と「すべて」を絶賛し、「誰が近年、『すべて』と比肩するような物語を読んだだろう!」とまで書いているのだが、短篇集全体としては、「高いレベル」にありながら「失敗している」とまで述べているという。
 画家キーファーと重要な繋がりのある作家としてバッハマンを読んだことは無駄ではなかったとは思うものの、一般の読書家に勧めるかといえば否定的にならざるを得ない。


三十歳 (岩波文庫)

三十歳 (岩波文庫)