『翼ある夜 ツェランとキーファー』を読む

 関口裕昭『翼ある夜 ツェランとキーファー』(みすず書房)を読む。久しぶりに重量級の本を読んだという思い。ドイツ文学者であり、ことにパウル・ツェランの研究者である著者が、ドイツ現代美術の重要な美術家アンゼルム・キーファーツェランの関係を読み解いている。これがすばらしかった。
 ツェランユダヤ人の詩人で、両親をナチによって殺されている。戦後ナチのホロコーストを詠った「死のフーガ」は戦後最高の詩として高く評価されてきた。ところがその詩がきわめて難解なものなのだ。私もこのブログで何度か取り上げてきた。本書の第1章は『「死のフーガ」と灰の花 キーファーのなかのツェラン』と題されていて、著者による「死のフーガ」の全訳が掲載されている。その第1連を引用する。

夜明けの黒いミルク私たちはそれを夕べに飲む
私たちはそれを昼に朝に飲む私たちはそれを夜に飲む
私たちは飲むそして飲む
私たちは空中に墓を掘るそこは寝るのに狭くない
ひとりの男が家に住む彼は蛇たちとあそび遊び彼は書く
彼は暗くなるとドイツへ書くお前の金色の髪マルガレーテ
彼はそれを書き家の前に歩み出るすると星々は輝く彼は口笛で猟犬を呼び寄せる
彼は口笛でユダヤ人たちを呼び出し地面に墓を掘らせる
彼は私たちに命令する奏でろさあダンスのために

 著者は《お前の金色の髪マルガレーテ》のマルガレーテとはドイツ人女性を象徴する名前だと言う。対して《お前の灰色の髪ズラミート》のズラミートはユダヤ人女性で、その髪は焼かれて「灰」と化していると書く。そしてキーファーの作品《お前の金色の髪マルガレーテ》には「黒い畝の刻まれた大地が、遠近法によって広大に描かれている」。画面に乾燥した本物の藁が張り付けられている。黄色い藁が「金色の髪マルガレーテ」を表している。その横に黒い太い線が炭で描かれているが、これが焼けて灰になった「灰(色)の髪ズラミーテ」を暗示しているという
 このようにキーファーの作品にはツェランの詩がいたるところに引用されている。だがそれらは明示的に理解できるものではなく、著者のマジックのような読み解きでやっと腑に落ちるものばかりだ。その主張も恣意的ではなく納得のできるものばかりだ。とくにツェラン研究者として、難解で知られるツェランの詩の読み解きはすばらしいものだ。
 著者はドイツ文学者で美術評論家ではない。その割にはキーファーの作品に対する理解力はきわめてすぐれたものがある。それはキーファーの作品が造形性とともに作品が意味することに大きな重点があり、そのメッセージを読み解くことがキーファー作品の理解に欠かせないためであろう。このあたりは凡庸な美術評論家ではよくなし得ないことだ。同時に、一方キーファーの造形性についての言及は少し物足りないものがある。それこそ美術評論家の仕事ではあるのだろう。
 とまれ難解なキーファーの作品がずっと身近なものに感じられた。キーファーの作品と言えば、軽井沢のセゾン現代美術館に「革命の女たち」という鉛のベッドの大きな作品が収蔵されており、ほかに豊田市美術館静岡県立美術館、高知県立美術館、福岡市美術館でも見たことがある。さらに来年1月から始まる横浜市美術館の「村上隆コレクション展」にも、キーファーの大きな立体が展示される予定だという。
 すばらしい本だと思う。絶賛したあとで、数か所の校正ミスを指摘してしまう。
・「ここに幾何学的な模様があるでしょう。これがなぜ現れるのが五歳のときから気になっていたのです。」(P.90)この「現れるのが」は「現れるのか」だろう。
・「前者は窓のない、左右に針が遠近法的に描かれ、」(P.132)この「針」は「梁」ではないだろうか。図版がないので分からないが。
・「クンドリーの魔力にかかって聖槍を奪われ、」(P.133)の「クンドリー」はその4行前には「グンドリー」となっている。
・「空から鉛が垂らしたりなど、」(P.163)の「鉛が」は「鉛を」ではないだろうか。
・「(葉柄の断面が双頭の鷲に二見えることからドイツ名がついたが、」(P.190)の「鷲に二見える」に「二」は要らないだろう。
・「巡洋艦アウロラは映画の中盤に姿を見せ、民衆に蜂起を注げる合図を出し、」(P.226)の「注げる」は「告げる」ではないか。
・「ダウラケがそれを切るとすぐに彼女の肉体は消滅し、」(P.305)の「切る」は「着る」だろう。
・「大胆に 自負の念もあらわに 旨を張り翼を広く拡げ」(P.361)の「旨」は「胸」だろう。


相原勝『ツェランの詩を読みほどく』から(2015年5月5日)
パウル・ツェランの詩(2012年6月18日)

翼ある夜 ツェランとキーファー

翼ある夜 ツェランとキーファー