毎日新聞の「2010年この3冊」から(上)

 年末恒例の毎日新聞の「2010年この3冊」が12月12日と26日に掲載された。毎日新聞の書評執筆者35人が105冊の本を選んでいる。その中から私が興味を持った本を挙げてみた。*を付けた名前がその本の選者だ。
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江國香織(作家)

●ラッタウット・ラープチャルーンサップ「観光」(ハヤカワepi文庫)
 丁寧な手つきが印象的な1冊で、収められた7編すべてが楽しい。なかでもカンボジア人の少女の話「プリシラ」と、老人(アメリカ人男性)を描いた「こんなところで死にたくない」は忘れられない。
●ウェルズ・タワー「奪い尽くされ、焼き尽くされ」(新潮クレスト・ブックス)
 その荒涼としたタイトルにもかかわらず、読んでいるうちに人間を好きになってしまう1冊。夜に戸外で、1本だけ灯されたろうそくの火を、ものすごく温かくあかるいと思う感じに似ている。現代のアメリカの、ごく普通(らしい)人々が描かれた9編。
ミランダ・ジュライいちばんここに似合う人」(新潮クレスト・ブックス)
 これは「奪い尽くされ〜」と全く違うトーンで、でもやっぱりアメリカの、ごく普通(らしい)人々を描いた1冊で、まなざしが、根本のところでやさしい。大胆な性描写も、これでもかとばかりに暴かれる孤独も、そのやさしさとユーモラスな語り口によって、たとえば貝殻とかガラス玉とかお菓子みたいに可憐に見える。

鹿島茂明治大学教授・仏文学)

プルースト吉川一義訳「失われた時を求めて 1 スワン家のほうへ I」(岩波文庫
 2010年は戦後の仏文学研究の総決算の年だったのかもしれない。仏文学における最高峰であるマラルメプルーストの主著がこれ以上は望みえない日本語となって出版されたからである。もしフランス語と日本語を完璧に理解する人がいたとするなら、この二つの翻訳においてマラルメプルーストは世界最高水準で理解されたばかりか、最高の日本語に訳されたと認めざるをえないだろう。

 このマラルメは「マラルメ全集 I 詩・イジチュール」(筑摩書房)だ。「最高の日本語に訳された」のだ! しかし吉川一義がこんなに褒められては、過去の訳者たち、鈴木道彦、井上究一郎中条省平高遠弘美らの立場が……


川本三郎(評論家)

角田光代「ひそやかな花園」(毎日新聞社
 角田光代は毎年コンスタントに力作を発表し続けている。今年も「ひそやかな花園」「ツリーハウス」「なくしたものたちの国」と3冊上梓している。
 なかでも「ひそやかな花園」は近年、新しい家族のあり方を追い求めているこの作家のなかでも出色のもの。
「出征の秘密」を抱えた子供たちがやがて大人になりそれぞれが秘密を知り、友情で結ばれてゆく。厳しさのなかの優しさにあふれ最後は涙が出る。

中村桂子JT生命誌研究館館長)

●末盛千枝子「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」(現代企画室)
 確かな眼でよい絵本を出版している著者が、これまでに出会った宝物のような絵本と、それを通してのすてきな人々との出会いを語っている。それが美しい生き方につながっているのがすばらしい。

沼野充義(東大教授・スラブ文学)

●サーシャ・ソコロフ「馬鹿たちの学校」(河出書房新社
 伝説の作品として知られるだけで長いこと未訳だったロシア作家ソコロフの「馬鹿たちの学校」では、息をのむほど美しい不思議な少年の意識の流れに浸ることができた。

丸谷才一(作家)

デイヴィッド・ベニオフ「卵をめぐる祖父の戦争」(ハヤカワ・ポケット・ミステリ
「卵をめぐる祖父の戦争」はたしか短評でも触れた。これもまたじつに痛快な娯楽読物で、レニングラード攻防戦という悲惨な題材を扱ってこれだけふざける度胸のよさ、芸達者に驚いた。この本からハヤカワ・ポケミスの表紙が新しくなり、いい気持。

 私もこの本は高く評価した。
傑作「卵をめぐる祖父の戦争」の面白さ!(2010年11月19日)


*持田叙子(日本近代文学研究者)

桐野夏生「優しいおとな」(中央公論社
 前半がすごい。近未来の渋谷が主人公といえる。格差社会が進んで子どものホームレスさえ増え、渋谷はアナーキーな街と化す。JR駅は「冷たい鉄の箱」のように無人化し、金持ちは車でこの街を通過するのみ。殺伐たる未来図は、現存の都市のはらむダークを先鋭化する。前作「グロテスク」に通底し、桐野夏生が、東京の詩人であり予言者であるのを痛感する。

*若島 正(京大教授・米文学)

ウラジーミル・ナボコフ沼野充義訳「賜物 世界文学全集IIー10」(河出書房新社
 ナボコフがロシア語で書いていた時代の最高傑作と謳われる「賜物」が、ロシア語から翻訳されたということじたい、一つの大事件である。亡命先のベルリンを舞台にしたこの大作は、濃密な文章をゆっくり時間をかけて読むことの喜びを教えてくれるという点でも比類がない。

 この項、続く。