青柳いづみこ「翼のはえた指」−−弟子の書いた優れた評伝

 青柳いづみこ「翼のはえた指」(白水社)は副題を「評伝 安川加壽子」という。著者青柳の師であるピアニストの評伝だ。1922年生まれの安川は、外交官だった父親について1歳少しで渡仏し、10歳でパリ音楽院に学び優秀な成績を収めたが、欧州大戦勃発直前に17歳で帰国した。
 帰国後天才少女ピアニストとして日本の楽壇にデビューした。「それまでドイツ系統の重厚な演奏が主流だった日本のピアノ界に、はじめてフランス風の優雅で洗練された演奏が紹介されたのである」
 しかし戦後も何年もすると安川のピアノがフランス風で、ベートーヴェンシューマンブラームスのようなドイツ音楽は得意ではないと批判され始める。1950年代には「バッシングの嵐にさらされた感がある」。54年のドビュッシーピアノ曲による安川のリサイタルに対して、音楽評論家の山根銀二は、

 第一にそれぞれの曲についてのイマージュの鋭さである。多くは望まぬにしても、もう少し焦点をしぼることはできないものか。ベルガマスク組曲前奏曲の違いはどこにあるのか。それからドビュッシー的なソノリテの基礎であるいわゆる垂直主義的なつかみ方がペダルの使い方で混濁していることである。これはレヴィ的でないし、またドビュッシー的でもない。

 これに対して青柳は、

 ドビュッシーが、垂直主義どころか、平行移動する和音塊をメロディとみなし、「自分の音楽はひたすら旋律である」と語っていたことを、評者の山根は知らなかったのだろうか?

 と憤慨する。だが、青柳は師への批判がすべて的外れなどと強弁しているのではない。ベートーヴェンソナタばかりを取り上げた1963年のリサイタルに対して、「音楽の友」誌上で、中村洪介や菅野浩和、大木正興らの行った座談会で、安川の演奏がベートーヴェン像をつくりあげる構成力とか、意志の強さに関係して、異質で限界を感じたとか、パッセージをさらりと流麗にひく技術、強い打鍵を好まず、自然な奏法、これらがベートーヴェンの反自然的な、つまり意志をもってすべてにぶつかっていくような音楽には、やはりマッチしないんじゃないか、と言った批評に対しては、

 これこそが、批評というものである。このようにきちんと筆をつくして論評してもらえば、納得せざるをえないだろう。

 このように冷静に受け止めている。
 さて、著者は安川の演奏上、音楽教育上の業績をていねいに紹介する。幅広い資料収集の上で書かれていることがよく分かる。そして「エピローグ」で最も重要で美しいことが語られる。大事なところなので、長くなるが引用する。

 加壽子は、フランスで初期教育を受けた、当時としては稀な音楽家として、自分の使った教材でいいと思うものはすべて翻訳して導入している。1951年4月、29歳の年には、「ピアノの一年生」というサブ・タイトルをもつ『メトード・ローズ』、52年6月には『ピアノのABC』と『ピアノのテクニック』が音楽之友社から出版され、現在まで多くの版を重ねてきた。
 しかし、たとえば、1999年4月現在、116刷を記録している『ピアノのテクニック』について、どれほどの人が、そこに秘められた宝物、貴重な遺産に目を開かれているだろう?
『ピアノのテクニック』は、『メトード・ローズ』の著者ヴァン・ド・ヴェルドの基礎練習の教本で、冒頭の「指をほぐす練習」には、『ハノン』を思わせる音型が出てくることもあり、プレ・ハノンとして使われることが多い。
 多くの人は、この本の22ページ「関節の練習」で、第5章で解説したようなショパンの練習システム、ネイガウスが「コロンブスの卵」と呼んだ革命的な理論が紹介されていることを知らないだろう。但し書きには「ショパン=ヴァン・ド・ヴェルドのシステム」とあるが、楽譜の上には「短い指は白い鍵盤を弾くこと、長い指は黒い鍵盤を弾くこと」と記されているのみで、くわしい説明は一切ない。
 私がこのページの重要性を理解したのは、ドビュッシーの評伝を書くために、ドビュッシーが手ほどきされたと伝えられるショパンのメトードについて調査してからである。逆に言うと、そこまでしなければ、おそらくこの音型の意味は生涯わからなかったにちがいない。
 ドビュッシーが、ショパンに捧げた『12の練習曲』の第1番で、この音型をそのまま左手のモティーフとして使っているのをみたとき、はじめて私の頭の中で、あるピアニズムの系譜が明確な像を結び、同時に暗澹たる思いにとらわれた。
 ショパンが革新的なピアノ技法をたずさえてパリにやってきたのが1831年ショパンの技法を身につけたドビュッシーがパリ音楽院に入学するのが1872年、ショパンの技法を研究するコルトーがパリ音楽院の教授に就任するのが1917年。レヴィがその後を継ぐのが1920年。ゲンリッヒ・ネイガウスが「コロンブスの卵」に注目し、モスクワ音楽院で指導を始めるのが1922年、レヴィのピアニズムを身につけた加壽子が東京芸大の講師に就任するのが1946年、あたかもかぐや姫のように天に帰っていったのが1996年。その間、165年! 筆者も含めて、どれだけ多くのピアノ学習者が、「曲げた指」と「のばした指」の選択にとまどい、ショパンのパッセージに指がなじまず、うまく重さがかからない現象に悩み、膨大な不合理な練習の果てに絶望の淵に沈み、あるいは手を痛めたことだろう。青い鳥は、すぐそばにいたのに。
 日本のピアノ界は、安川加壽子を尊敬し、あらゆる重要な団体の長に頂いたが、加壽子の指導の最も重要なポイントの部分、つまり、合理的な奏法による完全な脱力、楽器から美しい響きをひきだすという点については、なかなか普及させることができなかった。加壽子がとくにフランス音楽が得意だったこともあり、彼女の教えは、フランス音楽というレッテルで封印されてしまった感すらある。
 実際には、完全に脱力して楽器から美しい響きをひきだすことは、何もフランス音楽の演奏に限ったことではない。もっと全般的なピアニズムの命題なのである。その点に関しては、スラヴ系の流派でもアングロ・サクソン系の流派でも、なんら変わりはない。ドイツ音楽やロシア音楽だから力まかせの弾き方で汚い音を出してもよい、などということはありえない。
 加壽子はフランス帰りで優雅で繊細なピアノを弾いた。だから、人々は、それを「フランス風」「女手」の名のもとに総括し、それを崇めたり、逆にないものねだりをしたりした。野村光一が評した「フランス風」や「女手」の中には、「ドイツ風」や「男手」より重要ではない、少なくとも特殊であるという意味あいがこめられていたことだろう。ピアノとフォルテの間にも、同じような差別があったことと思われる。「フォルテが出ない」よりも「ピアニッシモが弾けない」ほうが、「軽く弾く」より「重く弾く」ほうが指が弱く技術が足りないなどと、当時は誰が想像したろう。実際には、音をたてない抜き足さし足の方が音をたてる歩き方よりよほど筋肉の支えを必要とするように、重力の助けをかりられないピアニッシモの方がフォルティッシモより、圧力の助けを借りられない軽いタッチの方が重いタッチより、はるかに強靱な指先や筋肉のコントロールを必要とするのである。
(中略)
……ヴァイオリンと違ってピアノでは、真に国際的に活動している(日本人の)演奏家は、内田光子他若干名を数えるだけではないだろうか。
 何が足りないのか。昭和30年代の「より強く、より早く」の時代に置き忘れられてきてしまったもの。音色、とくに弱音の魅力。作品の歴史的・文化的背景の理解をふまえた端正な様式感、古きよき時代を彷彿とさせる馥郁たる香り、演奏の芸術性と運動の合理性。それらすべての絶妙なバランス。つまり、加壽子にあって日本の若手にないもの。他のどの点をいかに完璧に満たしても、どうしても満たしきれなかったもの。
 日本のピアノ界が頭打ちになっているのは、安川加壽子が足りないからである。日本は、安川加壽子の活かし方を誤ったのである。加壽子自身には、自分がいかに稀有な存在であるかを分析することができなかったのだから、加壽子が帰国したとき、日本の楽壇は、音楽取調掛ならぬ安川加壽子取調掛をつくって、彼女を徹底的に解剖すべきだったのだ。

 青柳いづみこによるこの安川加壽子の評伝はとても美しい。1999年第9回吉田秀和賞を受賞している。青柳はリサイタルをするピアニストであり、演奏の技術的な点までも深く踏み込んで書いている。またエッセイストクラブ賞を受賞したこともある名文家だ。その二つが相まってこの評伝の成功がある。佐多稲子「夏の栞」や瀬戸内寂聴孤高の人」を思い出した。安川加壽子の演奏を聴いてみたい。


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