高山登展をめぐる娘との会話

 朝日新聞高山登展の展評が載っていた(2010年2月25日夕刊)。宮城県立美術館で開かれているという。高山登の、線路の枕木をあまり加工しないで組み合わせて展示したギャラリーでの個展を何度も見ているが、よく分からない作家だと思っていた。でも田中三蔵のこの展評を読んで驚いた。

 まず鑑賞者が出会うのは、中庭全体を使った作品。枕木を積んだり、並べたり、別の木材による構築物をかませたり。コンクリートや石、鉄骨も動員、巨大なネズミ捕りを思わせる金属造形物も置かれている。それぞれの意味は、とりあえず問うまい。その間を歩き回ると、物質感、存在感に圧迫される。破壊と誕生を思わせる場だ=写真上。
(中略)
 それら圧倒的な物質感に包まれていれば、それでよいとも言える。しかし、図録に高山が書くように、枕木の発想が、学生時代に見た炭坑の枕木や坑木を出発点としていると知ったらどうか。さらに敷衍して、枕木を「近代」を支えた鉄道の象徴とし、同時にその犠牲者の「人柱」ともとらえていると知ったら。無数の人柱を見る者は、一方で彼らに見られているわけだ。
 作者が在日韓国人2世として育ち、「存在の自己証明が出来ず」悶々とした時期を通過したことも黙視できまい。この闇は、私たち自身の荒涼。(展示されている鉄製の古い)ベッドには「死」も「性」(生)の含意もあろうし、ここでは、負の遺産を含めた歴史も、人々の生きる営みも、すべてが溶け合う。

 枕木は炭坑の枕木であり坑木であったのか。さらに高山が在日韓国人であることも知らなかった。娘にこの写真を見せて、展評も読み聞かせ、今まで枕木の展示がよく分からなかったが、これを読んで見方が変わったと話した。
 娘は、枕木の展示なんてつまらないよと言う。父さんが前に読んでくれたじゃない。美術の先生がルーブルでミロのヴィーナスを見ていたら、日本人の男の観光客の団体が入ってきて、ミロのヴィーナスって尻が大きいんだなあと言っている。その先生は憤慨していたけど、後で読んだ本にミロのヴィーナスは当時としてはヒップが大きかったと書いてあって、あの観光客たちも決して間違ったことを言っていたわけではなかったって。アートってことで目を眩まさられてはダメなんだよ。第一印象で枕木がつまらなかったら、その方が正しいんだよ。それ話してくれたの父さんだよ、忘れちゃったの?
 うーん、憶えてないなあ。在日韓国人として育ったのなら、それはとても辛かったはずだよ。しかし、娘との話はそれ以上展開しなかった。
 もう40年近く前、アメリカで差別を問題にして黒人が暴動を起こしていた熱い夏の頃、そのことを話題にした私に対して、お姉さんがアメリカに留学中の女友達が、でもねえ、お姉ちゃんの話では黒人てすごく汚くて乱暴で教養がないんだって、と反論した。アルジェで反仏闘争が起こっていた頃も、フランス人は似たようなことを言っていた。たしかサルトルが、ちゃんとした教育の機会も仕事の機会も奪っておいて、アルジェリア人が先天的に劣っていると決めつけていると批判していた。
 芝居の「焼肉ドラゴン」はそうした在日韓国人の生活を描いていた。今度高山登の展示を見る機会があったら、枕木に過去の歴史を重ねて見てみよう。