佐藤優の推薦するショーロホフ「人間の運命」

 佐藤優が「ぼくらの頭脳の鍛え方」(文春新書)で、ショーロホフの「人間の運命」(角川文庫)を推薦している。その「人間の運命」から。
 ドイツ軍の捕虜になった主人公アンドレイ・ソコロフが漏らした愚痴、1人1日4立方メートルの石を手で切り出すというノルマが多すぎるという愚痴を告げ口した仲間がいて、司令官に呼び出される。彼は死を覚悟する。

 俺の真正面には、半ば酔ったミューラーが坐ってる。ピストルをもてあそんで、手から手へ投げ渡しながら、蛇のように瞬きもせず俺を見ている。俺は両手をピタリとズボンの縫目につけ、履きつぶしたかかとをカチリと鳴らすと、大声で、『司令官殿、捕虜のアンドレイ・ソコロフ、命令により只今参りました』と報告した。すると奴がこうきくのさ。『ええと、ナニか、露助のイワン、4立方メートルのノルマは−−多すぎるのか?』『司令官殿、そのとおりであります、多すぎます』『1立方メートルならお前の墓に足りるのか?』『司令官殿、そのとおりであります、充分足ります、余る位であります』
 奴は立ち上がって、『わしはお前に非常な名誉を与えてやる。その言葉に対して今すぐこの手で射殺してやる。ここでは具合が悪いから、外へ行こう。外で登録するがいい』といった。俺は、『ご随意に』と答えた。奴は立って、しばらく考えていたが、やがてピストルを卓の上に放り出すと、火酒をコップ一杯注ぎ、パンを一切れとり、バターをのせて、それをそっくり俺にさしだして、『死ぬ前に飲め、露助のイワン、ドイツ軍の勝利のためにな』という。
 俺はコップとつまみものを、やつの手からとりかけたが、このせりふをきくやいなや、−−火に焼かれたような気がした! 俺は腹の中でこう考えた、『ロシア兵である俺が、ドイツ軍の勝利のために飲んでいいものか!? 司令官め、お前だって何やかや、いやなことがあるんだろう。俺はどうせ死ななくちゃならねえんだから、貴様はそのウォッカと一緒に、とっとと失せやがれ!』
 俺はコップを卓の上におき、つまみを戻して、『おもてなしに感謝しますが、私は飲めないのです』といった。奴は微笑(わら)って、『わが軍の勝利のために飲みたくないのか? それなら自分の死のために飲むがいい』こんな機会をのがす理由はないから『自分の死と苦痛からの解放を祝して飲みます』といって、コップをとると、二口で呑み干したが、つまみには手を触れなかった。掌でていねいに口を拭くと、『ごちそう様でした。司令官殿、用意ができました。出かけましょう、登録して下さい』
 しかし、奴は注意深く見守りながら、『死ぬ前につまみなりと食べろ』という。俺はそれに対して、『私は一杯目には食べないのです』と答えたところ、奴は二杯目を注いで、俺にさし出した。俺は二杯目も飲んだが、つまみにはまた手を触れなかった。(中略)司令官は白い眉をつりあげて、『露助のイワン、何故つままぬのだ? 遠慮するな!』という。そこで、『司令官殿、申し訳ありませんが、私は二杯目に食べるのも慣れていないのです』といってやった。奴は頬をふくらまし、ぷっと吹き出したが、不意にからから笑い出して、笑いながらドイツ語で何か早口にしゃべり出した。おれのせりふを仲間に通訳しているらしい。仲間もやはり笑い出して、椅子をがたがたいわせながら、俺の方に顔を向けた。気が付くと、いままでとは違って、何か優しく俺を見ているのさ。
 司令官は俺に三杯目を注いでくれたが、その手は笑いで震えている。俺はその杯を、体を伸ばしたまま呑み干して、パンを少し食べ、残りを卓の上においた。(中略)
 すると、司令官は真面目な様子になり、胸にかけた二つの鉄の十字章をなおすと、卓から立って武器も持たずに出て来て、『なあ、ソコロフ、お前は本当のロシヤ兵だ。お前は勇敢な兵隊だ。わしも兵隊だから、しっかりした敵を尊敬する。わしはお前を射殺しまい。それに今日、勇敢なわが軍はヴォルガに進出して、スターリングラードをすっかり占領した。これはわれわれにとって大きな喜びだ。だから私は寛大にお前の命を救ってやる。自分のブロックへ帰れ。これはお前が勇敢だからだ』といい、パンを1本とバターをひときれ卓からとって俺によこした。

 佐藤優が巻末の「新解説」で書いている。

 この(上記の)場面は、セルゲイ・ボンダルチュク監督の映画『人間の運命』でとても印象的に描かれている。ロシア人ならば誰でも知っているシーンだ。
 筆者もロシア人の政治家や軍人とウオトカを酌み交わすとき、「私は一杯目には食べないのです」「申し訳ありませんが、私は二杯目に食べるのも慣れていないのです」と言って、つまみなしにウオトカを3杯飲むと、ロシア人は、「マラジェッツ(たいしたもんだ)!」と言って、大喜びする。この手法でロシア要人との信頼関係を深めた。
(中略)
 ロシアで勤務して、この問わず語り形式の短編小説がなぜロシア人の心を打つかがわかった。外国人にはわからないが、ロシア人ならば誰にでもわかる作品の中で「書かれていない部分」が重要なのである。
 ソコロフはドイツ軍の捕虜になった。ドイツ軍の捕虜になったソ連将兵は、帰国後、ほぼ例外なく、強制収容所に送られたのである。スターリンが捕虜になった将兵を裏切者と考えたからである。(中略)ソルジェニーツィンの『イワン・デニソビッチの一日』とは別の形で、国家のために尽くし、捕虜になり辛酸をなめたが、ソ連国家はその苦しみに報いず、運命に翻弄された人々を断罪したことを描いているのだ。それだからロシア人はこの作品を読んで涙を流すのである。

 ドイツもソ連も日本も、敵の捕虜に対して極めて残酷だったことを知った。

人間の運命 (角川文庫)

人間の運命 (角川文庫)