ナボコフ『偉業』を読む

 Steps Gaqlleryのオーナー吉岡さんがブログでこの本を買ったと報告していたなかに、このナボコフ貝澤哉・訳『偉業』(光文社古典新訳文庫)があった。面白そうだと思って私も読んでみた。
 『偉業』はナボコフがロシア語で書いた初期の長篇小説。裏表紙の惹句に「自伝的青春小説」とある。主人公マルティンがロシアで過ごした幼年時代から、両親の離婚に伴って母とともにペテルブルグからクリミアへ移り、ロシア革命を避けてスイスのアルプスへ行き、さらにイギリスのケンブリッジ大学で学ぶ。ソーニャとの恋が物語の一つの核になっているが、恋はなかなか進まない。
 ロシア語の長い文体をそのまま生かすように訳したという文章は、フランスのヌーヴォー・ロマンのような印象だ。とにかく細部の描写に徹底的にこだわって書かれている。それは見事なものだ。だが一方、時代や事件などの節目の表現がまるで強調されていないため、だらだらと気づかぬうちに場面転換が済んでしまっている印象だ。さらに個々人の性格描写も少し軽いように思われる。数人の主要な登場人物を覗いて、個性がくっきりと描かれていない憾みがある。途中、崖から落ちそうになるエピソードも案外淡々と語られていて、これだけで短篇小説になるくらいの重さがあるのにと不思議に思った。
 総じて淡々としかし細部はきわめて充実した描写で、最後の冒険も結末が不明のままあっさりと幕を閉じる。
 おそらく本書の読み方は、主人公の行動を軸線に細部の描写を楽しむことにあるのではないか。
 さて、本文中に「牛蒡(ゴボウ)」について書かれている箇所がある。

(……)マルティンはときおり牛蒡のちっぽけな花を覆っている棘に顔を顰めながら、(後略)

 牛蒡について書かれているこの時代は第2次大戦前のはずで、この頃ヨーロッパで牛蒡が栽培されていたのだろうか。ただ花に棘があるというのは牛蒡のことを思わせる。牛蒡は日本特有の野菜で、第2次大戦で日本軍の捕虜になったイギリス兵が牛蒡の料理を食べさせられたことを、木の根を食べさせられたのは捕虜虐待だと戦後訴えたことがあったくらいだ。何か別の野菜のことではなかったのか。


偉業 (光文社古典新訳文庫)

偉業 (光文社古典新訳文庫)