白井聡『未完のレーニン』を読む

 白井聡『未完のレーニン』(講談社学術文庫)を読む。白井は、『永続敗戦論』、『長期腐敗政権』など、優れた書を書いている。本書はレーニンの思想について、『国家と革命』、『何をなすべきか』を中心に極めて詳細に読み解いている。原本は一ツ橋大学大学院の修士論文として書かれたものだという。レーニンに沿って革命の可能性が肯定的に綴られる。その精密な論理は見事なものだ。

 修士論文ということではそれ以上求めることではないだろうが、ソ連が崩壊した今、レーニンの目指した方向が後継者スターリンによって醜く歪められたとは言え、そのままレーニンを肯定することは大方の説得力を持たないのではないか。ソ連建国の根本的な問題を洗わなければならないのではないか。

 本題から少し外れるが、ユダヤ教キリスト教の関係について、フロイトウェーバーの言説を紹介している一節が興味深かった。

 

フロイトにとって、ユダヤ人とはキリスト教を受け入れなかった人びとの別名である。そして、キリスト教とは「息子たる者が、父なる神に取って代わってしまった」宗教であり、そこでは「まさしく、先史時代にすべての息子がそれぞれ熱望していたことが起こった」とされる。なぜなら、息子が父なる神の地位へと上昇したからであり、これはトーテミズムによる「欲動断念」が解除されたことを意味する。

(中略)

 ちなみに、ユダヤ教キリスト教との関係についての以上のようなフロイトの見方は、精神分析に特有の用語とフロイト特有の宗教発展観を取り払ってしまえば、別段奇を衒った特殊なものではない。ウェーバーはつぎのように言っている。

 「厳密に「一神教的」であるのは、煎じ詰めればユダヤ教イスラム教だけであり、このイスラム教ですら、のちに浸透した聖者崇拝によっていくぶん弱められている。キリスト教の三一論は、ヒンドゥ教や後期仏教や道教の三一論における神の三身論的把握とは違って、ひとり本質的には一神教的なはたらきを示しているが、他方ではカトリックのミサ儀礼や聖者崇拝は事実上多神教にきわめて近づいている。」

 したがって、フロイトが見出すユダヤ教の特質とは、宗教の起源に内在するトーテミズム的モメント、すなわち偶像崇拝と神強制(=魔術)へとつながるモメントを徹底的に排除しようとする傾向である、と言うことができる。

 

 白井聡の本はこれからも読んでゆきたい。