日本一焼き肉店が多いまち

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 朝日新聞が長野県飯田市を「日本一焼き肉店が多いまち」と報じている(5月24日夕刊)。「飯田市 マトンもジビエも馬の腸も」と。

 

 人口1万人あたりの焼き肉店数「日本一」――。全国の焼き肉店数ランキングが4月下旬に好評され、長野県飯田市が1位の座を守った。

 (飯田市やJAみなみ信州などで組織する「南信州畜産物ブランド推進協議会」による独自調査)その結果によると、人口10万人余の飯田市内に焼き肉店は53店あり、人口1万人あたり5.26店で全国トップ。2位は沖縄県石垣市の5.02店、3位は北海道北見市の4.80店。(中略)

 飯田市内の店で提供されるのは、牛や豚から羊(マトン)、ジビエなど幅広く、部位も内蔵(モツ)やおたぐり(馬の腸)など様々だ。

 

  なぜ山国の小さな街に焼き肉屋が多いのか? その理由を以前友人の原英章君が調査している。原君によると、先の戦争中、飯島発電所とその隧道工事が、昭和18年に着手され、熊谷組が請け負った。建設工事に関わった作業員は、熊谷組傘下の土木業者、勤労報告隊、学徒動員された飯田中学生徒、自主渡航および強制連行された朝鮮人労働者、中国人労働者(捕虜)、連合国捕虜となっている。

 自主渡航組の朝鮮人労働者、とくに家族持ちの朝鮮人と地元の人たちとは多少交流があり、主に女性たちによる生活面での交流が多かった。本書(『飯島発電所とその隧道工事についての調査研究』)に聞き書きが記録されているが、「朝鮮人たちが近在の農家から買ってきた牛やヤギを殺して解体し、そのブロック肉を骨付きのまま鍋で煮てスープを作っていた。煮たヤギのキン玉は赤いソーセージのようで塩をかけて食べた。ヤギの生き血を飲んでいた。当時、飯田地方では肉といえばウサギやニワトリだった」。

 本書から、

 このような食文化、特に肉食が、地元に何らかの影響を及ぼしているのではないか、と予想して、「遠山ジンギス」で有名な「肉のスズキヤ」創業者の鈴木理孔(まさよし)さんに聞き取りをしてみたところ、「子どもの頃近くの朝鮮人家族が肉を食べるのを見ていた」ことがあるとのことだった。

 この時の聴き取りでは朝鮮人との直接の関わりについての言及はなかったが、後で遠山観光協会のホームページを見ると、「肉のスズキヤ(昭和30年創業)の初代、鈴木理孔さんは当時を振りかえります。『戦時中は飯島発電所を作るために、約1万人も中国人や朝鮮人の労働者が遠山に来ていたんだ。そんな彼らの一人から、オレはジンギスの味付けを教わったんだよ』(理孔さん)と紹介されていた。また、理孔さんは次のように語っている。

 「羊の食べ方は、昭和31年頃以前は大根や牛蒡を入れて煮て食べるだけであったが、工務所の奥さんに焼いて食べるとおいしいと教わり、初めて羊の肉を焼いて食べた。また、漬け方も教わった。」(飯田市美術博物館柳田国男記念伊那民俗学研究所『遠山谷南部の民族』2008年)ここで鈴木さんが「工務所」といっているのは鈴木さんの近所に住んでいた「木下工務所」のことで、木下さん一家は戦後も日本にとどまり、木沢から和田に移って土木関係の仕事をしていた。当時、地元の多くの農家では副業として毛をとる羊を飼っていたが、次第に羊毛は輸入におされてか採算がとれなくなり羊の処分に困っていたこともあったようだ。鈴木さんが売れると直感して肉屋を始めたのが昭和31年だった。

 戦時下に取り組まれた飯島発電所工事で当地へ来た朝鮮人から鈴木さんが教わった肉の味付けが、やがて遠山谷だけでなく飯田下伊那地方で広く販売されている人気の味付け肉の産業に成長したとすれば、過去の交流が花開いたと言ってもよいだろう。暗く重い出来事に覆われている中でこのような副産物が残ったことは特筆すべきかもしれない。

 最近、飯田下伊那食肉組合が発行した『南信州にくにくマガジン』には「遠山のジンギス」について次のように紹介している。「信州は北海道や岩手県と並ぶジンギスカン王国。とくに南アルプス山麓飯田市の遠山地方が中心地のひとつです。毛糸用に飼育されていた綿羊の肉を、焼肉の本場朝鮮から伝わったタレに漬け込んで焼いたのがその始まり。当地では末尾を省略して『ジンギス』と呼び親しんでいます。」

 「焼肉の本場朝鮮から伝わった」と朝鮮半島伝来の味を「売り」にしているのだが、その伝来にまつわる重い歴史に、果たしてどのくらいの人が思いを走らせるのだろうか。

 

 ということで、飯田市が日本一焼き肉店が多い街になったのだった。ただ、東京でイメージするような焼き肉店よりもジンギスカン(マトン)やモツ、おたぐり(馬の腸)の焼き肉店が多いのではないか。さらに一般家庭でもジンギスカンの需要は多く、どの家にもジンギスカン鍋が備わっていた。