鬼海弘雄『靴底の減りかた』を読む

 鬼海弘雄『靴底の減りかた』(筑摩書房)を読む。厳しい写真を撮っている鬼海の文字だけのエッセイ集だ。いや、32ページのモノクロ写真が挟み込まれているが。
 鬼海は淡々と書き綴っていく。事件はほとんど起こらない。いや鬼海はトルコだけで15年間に6回旅して延べ滞在日数が9カ月になったと、その写真を『アナトリア』(クレヴィス)にまとめている。様々な事件や事故に遭遇しているだろうに、それらのことは書かないし、写真集にも選ばない。ただ日常的な事柄を淡々と書いているだけだ。
 では文章が苦手なのかと言えば、優れた書き手であることは疑いもない。子供の頃に飼っていた牛を馬喰に渡した時のことが短い文章で切々と伝わってくる。

 アカとは生家で飼われていた牛の名前だ。あれはたしか中学1年の春、ついに我が家にも小型耕耘機がやって来て、長年耕筰を担っていたアカが売られることになった。家族のように親しんでいたので、馬喰の三輪トラックに乗せられるところは見たくないと思っていた。あいにく、昼に来るはずだったトラックが遅れ、私の帰宅時間と重なった。
 馬喰に鼻面をとられたアカは、自分の運命を予知してかトラックに乗るまいと蹄で地面を噛んで長く逆らい抵抗をした。見かねた父は、アカの耳元で人に話しかけるように、いままでご苦労だったことや事情で飼えなくなったことをあやすように謝った。するとアカは大きな瞳をゆっくりと瞬きながら、荷台に渡された板を登ったのだった。その日からしばらくは、アカのことを話すことを家族が避けていた。

 声高に語ることを決してしない人。劇的な事件を語ることを避ける人。しかしそれは皆鬼海の胸にしまわれているのだろう。それらが全てろ過されて写真やエッセイににじみ出ているのではないだろうか。

 

靴底の減りかた (単行本)

靴底の減りかた (単行本)