2月3日は節分だった。節分の夜は大島かづ子の短歌を思い出す。
追儺の豆外には打たじ戸はたてじ召さりし護国の鬼の兄来よ
追儺(ついな)は節分の夜、桃の弓で葦の矢を放って悪魔を追い払う儀式。戦死した兵は鬼となって国を守るとされた。戦死した兄を妹が偲んでいる。彼女は年老いたのに兄は若いままだ。護国の鬼になった兄の魂が戻ってくるように、「鬼は外」の豆は撒かないし、ドアも開いたままにしておく。
『昭和万葉集』に成島やす子の短歌がある。
さがし物ありと誘い夜の蔵に明日往く夫は吾を抱きしむ
夫はそのまま帰って来なかったのだろう。戦中の環境は夫婦の愛の自然な発露も許さなかったのだ。舅や姑の眼を憚って妻を抱きしめるのに蔵に誘わければならなかった。遺骨は帰って来たのだろうか。
曽根原嘉代子は帰らなかった義兄宏さんの遺骨を詠んでいる。
一片の骨(こつ)だにあらぬ兄の墓学徒の帽子深く埋もる
カミさんの伯父宏さんは昭和19年海軍技術将校としてボルネオ・タラカン島に赴任し石油掘削の仕事に従事していた。しかし終戦後同島で捕虜生活を送るなか、昭和20年10月14日に病気のため亡くなった。27歳だった。遺骨は帰ってこなかった。
護国の鬼の短歌は馬場あき子の短歌を連想する。
われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり
馬場あき子は『鬼の研究』という本で、鬼は情念を持って亡くなった女がなったものだと書いた。馬場は60年安保で学生運動に従事した。しかし、その後運動から離れ日常生活に戻っていった。そのことを「女となりて糸を紡げり」と表現したのだろう。