美術評論家3人が亡くなった

 6月からふた月ばかりの間に3人の美術評論家が亡くなった。6月2日にワシオ・トシヒコさん(75歳)が、6月3日に本江邦夫さん(70歳)が、そして8月5日に名古屋覚さん(51歳)が亡くなった。ワシオさんと本江さんが心筋梗塞、名古屋さんは自分ですい臓がんだと『ギャラリー』7月号のコラムに書いていた。
 ワシオさんは美術評論家で詩人だった。わが師山本弘について公明新聞と雑誌『Bien 美庵』に紹介してくれた。『ワシオ・トシヒコ詩集』(土曜美術社出版販売)が発行されたとき、青華画廊で展示即売会が開かれた。出版の条件が発行部数の半分を著者が購入するというものだった。それで即売会を開いたので私も購入した。そこから「考える人」を、

歩く
見る
座る

 

歩く
見る
座る

 

歩く
見る
座る

 

歩くうちに
歩く理由が彼方へと消える
見るうちに
見たいものが見えなくなる
そこで地べたに
どっこいしょと座る

 

夕闇が迫る
ホームというかたちがあっても
限りなくホームは遠い
還ることばの場処がない
もう立ち上がれない
気力が戻らない
座ったまま石のように固まる
意志のない石となる
彫刻のポーズとなる
考えるふりして
ロダンとなる
考える人となる

 ワシオさんは優れた詩人ではなかった。てか、むしろ下手な詩人だった。『ギャラリー』7月号に名古屋覚さんが書いていた。かつての座談会でのワシオさんの発言について、本江さんが「学がないよね」と名古屋さんに感想をよこしたと。
 名古屋さんは本江さんについても、同じ誌面で書いていた。ある年のVOCA展のシンポジウムで別の選考委員と意見の対立めいたものが生じた。シンポジウムが終わったとき、本江さんが名古屋さんに「タテハタって本当に〇〇だね」とささやいたと。〇〇はもちろんバカだろう。本江さんは東大出身だった。東大の同級生に編集プロダクションを経営していたO田さんがいた。O田さんが肺がんで亡くなったあと、銀座の画廊で本江さんに会ったとき、O田さんが亡くなったのを御存じですか? と訊いた。知らなかった、私たちはグループが違っていたので一切交流がなかったから、と言われた。本江さんはグループと言ったが、O田さんはセクトと言っていた。O田さんは本江は頭が悪いんだとも。O田さんや本江さんのように頭が良い人達はそのことを価値の重要な基準に置きがちだ。だからけなす時はあいつはバカだということになる。
 名古屋さんとは画廊で会ったときに挨拶をしたくらいだった。舞台俳優の名古屋章の甥にあたることは知っていた。叔父さんが亡くなったあと、甥はギャラリーQで名古屋章遺作展を企画した。叔父さんの絵は下手だった。
 『ギャラリー』8月号に名古屋さんの絶筆?が載っている。ステージ4の膵臓がんだが、抗がん剤は辞退し、痛みおよび物理的障害のみを緩和または排除し、運を当てにして細々と生きる方針を決めた。51歳でステージ4の膵臓がんで、抗がん剤を使用せず緩和ケアだけでいくと、どうなるか。ささやかな実験が進行中である。
 本江さんの突然の死はネットに相当数の追悼をあふれさせた。その陰に隠れたかワシオさんの死に触れた書き込みはほとんどなかった。誰かがワシオさんと名古屋さんの悼辞を書いてくれないだろうか。本江さんについてはいずれ大勢の人が書くだろうから。