高井有一『立原正秋』を読む

 高井有一立原正秋』(新潮文庫)を読む。作家立原正秋の伝記だが、高井にとって立原は面倒見の良かった先輩にあたる。
 私が高校生のとき、親友が立原を大好きで強く進められて何冊も読んだ。彼はシナリオライターを目指していて、作家では立原が、映画監督では増村保造が好きだった。私と違いちょっと娯楽路線寄りだったが、その影響で立原をたくさん読まされた。「剣ケ埼」「薪能」「辻が花」「情炎」など面白かったが、自伝的な『冬のかたみに』と『日本の庭』が特におもしろかった。
 立原正秋は、父は李朝末期の貴族李家より出て金井家に養子にやられたと称していた。『冬のかたみに』では父は日朝混血だったとしている。立原は自分は日韓混血だと主張していたが、高井は両親とも朝鮮人だったと明かしている。戸籍名は金胤奎(キム・ユンギュウ)だった。再婚した母を追って日本に来たときは金井正秋と名乗っていた。横須賀市立尋常高等小学校の1学年下に米本光代がいて、のちに結婚して米本姓を名乗った。
 立原は1945年4月に早稲田の専門部法科に進学する。大学中退後、セールスマンや夜警の仕事をする。小説を書いていたが、「剣ケ埼」が好評で芥川賞の候補にもなった。新潮社から声がかかり、流行作家立原正秋が誕生する。1966年「白い罌粟」で直木賞を受賞する。立原は芥川賞でないのが不満だったようだ。一度は辞退したが、説得されて受賞を受け入れた。
 売れっ子になった立原は贅沢をした。東京へ出れば帝国ホテルに泊まり、洋服はすべて壱番館、料亭は吉兆、酒は三千盛を蔵元から取り寄せ、茶は川根茶、電車はグリーン車だった。
 本書の「交遊抄」の項で、立原は川端康成について、「人生無常を少年のころに知った孤児の沈痛なひびきと、美にたいするしぶとい求道者の姿勢」だと言い、芭蕉、實朝、西行と、「漂泊者であり求道者であった」詩人の系譜につなげて、川端氏を位置づける。その背景には自分もまた孤児であり、「姻戚の家をたらいまわしにされ」て育ち、ふるさとを持てない漂泊者だとの自己認識がある。
 吉行淳之介に兄事する気持はずっと変わらなかった。同時代で一番優れた作家は誰かと問われて、吉行淳之介と答えた。吉行も立原の死後書いた一文に「これらの短篇には、虚無の風が吹き抜けており、余分の理屈はなく、そこがとてもよかった」とある。
 高井有一立原正秋におもねることなく厳しい態度で臨んでいる。でありながら、高井の立原に対する深い友情が感じられる。良い伝記だと思う。20数年ぶりの再読だったが、高井の気持ちが感動的で印象的な読書だった。


立原正秋 (新潮文庫)

立原正秋 (新潮文庫)