私の履歴書

 誰からも要望はないが、私の履歴書を書いてみる。
 1948年(昭和23年)長野県下伊那郡喬木村生まれ。同郷の偉人に椋鳩十がいる。母の実家のすぐ近所の出身だ。母が子どものころ、長髪の大学生で、ひょうひょうと歩いていたという。継母なる人と折り合いが悪く、卒業後村に帰ることをしないで、鹿児島に行ってしまった。
 他には相撲の大山親方の出身地だったが、大山親方については何も知らない。生家は県道に面していたが、古くて小さな田舎の家だった。
 小学校の5、6年のときの担任が宮島光男先生だった。植物学が専門の先生で強い影響を受けた。植物が好きになったのは先生の影響だった。小学校の同級生が親友になった。ハムとは1年生の時からの同級生で、交友は去年彼が肺がんで亡くなるまで続いた。ハムからはクラシック音楽を教わった。ベートーヴェンピアノソナタ好きも、シューベルトの『冬の旅』が好きなのもハムの影響だった。ハムの贔屓はケンプとヒュッシュだった。
 小学校では、もう一人の親友に出会った。ニックネームを原文と言った。本人はペンネームを原A章と名乗っていた。牧師さんに名前を聞かれて「エイショーです」と答えると、字はなんだと聞かれ、英語のエイですと言ったら、ケ、ふざけるなと言われたという。英語のエイは「英」のつもりだったが、「A」と思われたらしい。以来A章と名乗っている。
 原文からは文学を教わった。大江健三郎を知ったのも原文からだった。『万延元年のフットボール』以来、大江はリアルタイムで読んでいる。
 高校は飯田高校、日本史を教わったのは矢嶋先生だった。穴熊と呼んでいたが、去年だったか俳句の最高峰である蛇笏賞を受賞した矢嶋渚男がその穴熊だった。熊蝉や熊野は山の噛みあへる、などの句がある。あほな高校生はそんな偉い先生だとは知らなかった。
 高校を卒業して田舎で浪人をしているときに、さらに二人の親友を得た。小池と原和だった。原和は1浪のあと静岡大学の法学部に受かって行った。学生運動をして、大けがもし、小林秀雄に触れて運動から離れた。寮で麻雀と囲碁に明け暮れた。大谷寮で麻雀も囲碁も一番強いとうそぶいていた。6年間在学して中退した。一時期サラリーマンをしたが、すぐ土方になった。現場監督もしたが、山仕事で大けがをし、酒におぼれパチンコに狂った。古代史の古田武彦を教えてくれたのが原和だった。10年ほど前の夜電話をしてきて、これから死ぬからと言ってその夜本当に死んでしまった。
 原和を悼んで詠んだ俳句と短歌
空荒れる君の心か道凍れ
珍しき大雪の降る君死ねば
もっと降れなまじの雪では鎮まらぬ
焼け跡に君を鎮めて雪積もれ
鎮魂の薔薇を沈めて雪積もる
わが妻が君に手向けし花束を深く埋めて雪よ降り積め
燃えていた君の身体をかすかにも冷ましくれるか雪の降り積む
 一緒に浪人した小池君は北海道大学の経済学部に行き、就職した旧財閥系の鉱山会社で代表取締役専務になった。決して威張らない男だった。好きなことを訊くと、休日早起きして公園を散歩し、早くから開けている喫茶店でショーロホフの『静かなドン』を読むことだと言った。送迎の社用車を断り、電車通勤を通した。その方が本が読めるからと。彼も今年の冬肺がんで亡くなった。
 ハムは早稲田大学を中退し、鳥取大学獣医学部を卒業した。田舎に帰って養豚業をやりながら獣医をしていた。キリスト教に夢中になったこともあった。私たち夫婦に革装の分厚い聖書を2冊贈ってくれたことがあった。わが師山本弘の口癖だった「空の空 空の空なる哉(かな) 都(すべ)て空なり」の出典を問うと、旧約聖書の「伝道の書」だと即答して、即座に日本語と英語で暗唱してみせた。
 Jと知り合ったのも高校でだった。同じ天文班(クラブ)だった。桑沢デザイン研究所に行った彼からはデザインについて教わった。後年私がデザイン会社で仕事をしたのは、その教えのおかげだった。
 高校のとき一番親しくしたのは星君だった。星は早稲田を卒業したあと、シナリオ研究所に通ってシナリオライターを目指していた。シナリオの共同ライターに誘われたと喜んでいたのに、恐山へ行ったままついに帰らなかった。もしかすると、北朝鮮に拉致されたのではないかと同級生と話している。
 私は結局田舎で2浪して受験をあきらめ、上京してしばらくJのアパートに同居させてもらった。最初に就職したのは銀座のキャバレーのポーターだった。将校のような衣装を着せられ、銀座の中央通りに立って客をビルの6階の店まで案内した。店の名は、未亡人サロン何たらと言った。高級クラブのクラウンの姉妹店だった。
 その後は、何をしたんだったか、渋谷のマンモスキャバレー「エンパイア」のウエイターもした。ホステス700人、ウエイターとメンバーが70人ずついた。
 その後横浜の鶴見でテキヤをしたのだった。屋台を引いてラーメンを売っていた。与えられたショバが末吉町だった。衛生的に問題がなかったわけではないが、おいしいラーメンだったと自負している。
 テキヤのあとは日雇い土工もしたし、飯場に入って舗装土方もした。飯場ではおいちょかぶを憶えた。1から0までを符丁で呼ぶ。チンケ、ニタコウ、三太、四ツ谷、後家、六法、泣き、おいちょ、カブ、ブタ。
 その後が日産自動車座間工場のプレス工だった。丸1年間やった。休み時間にマルクスの『経済学哲学草稿』などを読んでいて、原文から労働者の鑑と揶揄された。そのころ寮に住んでいて、コピーライターを通信教育で勉強した。その資格で次の広告会社に入った。
 広告会社では34年間勤めた。入社したときに編集プロダクションだったのを、私が広告プロダクションに作りかえた。コピーライターとアートディレクター、営業と撮影を担当した。営業が一番向いていたのかもしれない。
 34年勤めて、経営に携わったが、オーナーを批判して辞めさせられた。無収入になってかみさんが出て行った。その後、東京都住宅供給公社、総合警備保障、みずほ信託銀行などに勤め、現在はA出版で庶務係をしている。
 

大事なわが師 山本弘のことが抜けていた。
帰燕せつなき高さ飛ぶ(2006年6月29日)