ハム追悼

 丸谷才一『腹を抱へる』(文春文庫)を読んでいたら、「懐かしい人」という章の中に、「菊池武一」というエッセイがあった。菊池武一は四国高松の人、明治29年生まれ、長く國學院大学の教授として英語を教えた。昭和47年没、享年76。丸谷は昭和39年まで十数年間、この大学で英語を教えていた。丸谷の文章の初出は分からないが、この「菊池武一」は追悼文のようにも読める。文章の最後はこうなっている。

 人間は誰でも死ぬ。とすれば、死んだからと言つて別に悲しむ必要はない。ただ、不幸な一生を送つた死者に対しては、われわれは悲しまなければならない。そして菊池さんのやうに、天才的と言つてもいいくらゐうまい具合に一生を送つた人の場合、われわれはただ羨みさへすればそれでいいのではないかと思ひます。

 今年2月2日に友人が亡くなった。私は彼のことを40年以上ハムと呼んでいた。同じ村に生まれ、小学校では1年1組だった。6年間同じクラスで過ごし、中学、高校とも同じ学校だった。小学校1年のときから仲が良かった。プロレスの技を掛け合ったりしていた。中学3年になるとき、突然天文クラブを作ろうと誘われて、それから高校を卒業するまで天文学に関する本を読みふけった。
 高校を卒業して1年間田舎で浪人生活を送り、その間2日に1回は会っていた。クラシック音楽を教えてくれたのはハムだった。シューベルトの『冬の旅』が好きで何度も聴かされた。戦前のヒュッシュがハムのお気に入りだった。ベートーヴェンのピアノ・ソナタもよく聴いた。ハムはケンプが好きだった。
 1浪したのち、ハムは東京へ行くと言って村を去っていった。田舎で浪人をしていた友人はほかに2人いた。1人は北海道大学に合格し、もう1人は静岡大学に入学していった。静岡大学に入学した友人、原和はもう10年ほど前になるが、1人暮らしの山荘に火を放ち亡くなった。その直前にこれから死ぬからと電話をしてきて。
 東京でハムは肉体労働の仕事を転々とした。新聞配達とか山谷の日雇い仕事とか、横浜では港湾労働の仕事もしたと言っていた。アンコウって言うんだ。コウアンをひっくり返した名前だとか、鮟鱇のように口を開けて仕事を待っているから付いた名前だと言っていた。ポンプの仕事はきつかった。生コンクリートをポンプ車でビル建設の現場に流し込む仕事だ。寒風吹きすさぶ冬の現場は寒かった。手が凍えた。最後に屋台のラーメンを売る仕事に就いた。テキ屋の親分に雇われていた。
 しばらくして田舎へ帰った。田舎で1人で勉強をして翌年早稲田大学に入学した。しかし1年経ったかどうかで退学し、田舎へ戻って兄貴の経営する養豚場で働き始めた。養豚業は動物薬品が高価だと言って、自分が獣医になればそれが安価に入手できると気づき、また1年間勉強して今度は鳥取大学獣医学部に入学した。6年間学んだのち、村へ帰って兄貴の養豚場を手伝っていたが、そのうちに独立して自分の養豚場を持った。1人で2,000頭飼育していた。
 やがて人も雇い、豚の新しい品種も開発した。仕事は順調のようだった。ただ酒量はハンパなものではなった。ほとんどアル中だったのではないか。部屋は焼酎のビンやビールの空き缶で床も見えないと言っていた。
 一昨年の暮れに、肺癌と診断された、余命2年と言われたと電話してきた。治療は拒否して近藤誠のガンは治すなというような本を読んでいると言っていた。癌宣告を受けて結局1年2カ月ほどで亡くなってしまった。近くに住む友人が、昨秋家を訪ねたら、ビールの空き缶などであんなに散らかっていた部屋がきれいに片づいていたよと話してくれた。覚悟していたのかもしれない。
 ハムは小学校の同級生だったきれいな女の子が好きで、その気持ちは一生変わらなかったようだ。数年前大きな口径の天体望遠鏡を買ったと言っていた。自動追走式の赤道儀だったと思う。今度星を見せてやるよと言っていた。見せてもらえなかった。何で約束を守らなかった。
 ハムと名づけたのは私だった。人にはハムレットのハムだと言っていた。悩みが多いんだと。本当はハム・ソーセージのハムだった。ハムとの付き合いは60年近かった。一番長い付き合いの友人だ。身長が184センチもあった。変わり者と言われていた。亡くなった原和も変わり者と言われていて、二人が通っていたバーのママから、あの二人が親しい友人だなんてあなたも大物ねと言われたことがあった。大物ではないが、たぶん同じ色の羽をしているのだろう。
 丸谷才一の言う「人間は誰でも死ぬ。とすれば、死んだからと言つて別に悲しむ必要はない」はその通りだろう。悲しむ必要はない。ただ悲しいのだ。それを抑えることができない。昔カミさんが言った。あんたたち3人は宇宙人よ、みな足が1センチ地球から離れている。いつかあちらの宇宙ででまた会いたい。ハムの本名は知久博司と言った。