今日は原和の5回目の祥月命日だ


 今日は原和の5回目の祥月命日だ。5年前の今夜9時頃、別れの電話をくれてその3時間後に亡くなった。原和とは小学校、中学校、高校が一緒だったが、同じクラスになったことはなかったし、特に付き合いはなかった。高校を卒業して2人とも受験に失敗し、田舎で浪人しているときに付き合いが始まった。頭が良いのにウブな奴で、ボーヴォワールの「第二の性」を貸してやったら、お母さんにお前にはまだ早いと取り上げられたと言っていた。お母さんは農家の主婦だったがインテリだったんだ。そのせいかあるいは末っ子のせいか生涯マザコンだった。新珠三千代村松英子が好きだった。2人ともはるかに年上だ。
 一ツ橋大学を目指したが、東大出身の義兄が一ツ橋を受けるなら東大を受けろと言って、志望を変えた。東大の一次試験の前夜飲み過ぎて二日酔いになり、そのせいかどうか不合格だった。静岡大学に進んだ。学生運動にのめり込み、頭に石を投げつけられ怪我をし、小林秀雄を読んで挫折した。大学の6年間は麻雀と碁に明け暮れた。授業には一切出なくて退学になった。
 それからほぼ30年間土方をしていた。亡くなる35年前から死ぬと言い続けた。20数年前、ドリュ・ラ・ロシェルの「ゆらめく炎」を探して送ってくれと言ってきた。主人公が自殺する小説らしい。もちろん探さなかった。しかし本屋で偶然見つけた。1982年12月六本木のおそらく青山ブックセンターで買った。原和には黙っていた。後書きでルイ・マルが映画化していることを知った。「鬼火」だ。そのことも教えなかった。しかしあいつのことだ、図書館から借りて読んでいただろう。国会図書館の本まで借りていたのだから。
 そして5年前電話をしてきて別れを告げ死んでしまった。山本弘の死と原和の死が生涯で最も悲しい出来事だ。あと10年くらいしたらまた会おう。
上の写真は友人の焼けた住居址、高台にありおよそ30坪、はるか東南に天竜川が光って見える。ときどき巡礼するわが聖地。
下の写真はたぶん20代後半の原和。長野市の喫茶店で、露出計に興味を示していた。

2年前に書いた「原和の命日」(2007年1月13日)
「友人の死に際して」(2006年11月23日)
「友人の1周忌に詠める」(2006年6月5日)