東京都写真美術館の長島有里枝展を見る


 東京恵比寿の東京都写真美術館長島有里枝展が開かれている(11月26日まで)。長島は1973年、東京都生まれ。武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科を卒業し、アメリカのカリフォルニア・インスティテュート・オブ・アーツのファインアート科写真専攻修士課程を修了している。1993年に家族とのヌードポートレイトで衝撃的なデビューをした。2009年に優れたエッセイ集『背中の記憶』(講談社)を出版し、文筆家としても非凡なことを示した。現在は読売新聞の書評委員も務めている。
 長島は20歳のときに撮った家族のセルフ・ポートレイトでパルコ賞を受賞して注目された。両親と弟と長島の4人が全裸になって並んで写っている。家族の全員が屈託なくモデルを務めているその自然さが特異な状況とも相まって見る者を驚かせる。
 出発点の作品がアラーキーの提唱する私写真だったように、長島は身近な人たちを演出することなくそのまま作品にしている。友人たちやボーイフレンドたち、長島自身も被写体に選ばれる。しかも長島はしばしばヌードで写ることもいとわない。それらの写真は長島がアラーキーの大きな影響を受けていることを示している。しかしアラーキーの主要な関心の一つが性=エロティシズムであるのに対して、長島の関心はそこにはない。長島のヌードはエロティシズムではなく、私小説のような自己を中心とした半径10メートルの世界が対象なのだ。そこには必然的に自己のヌードが入ってくる。
 長島はアメリカに留学しスイスで滞在制作をする。結婚し子供が生まれ成長していく。長島はそれらを日記のように撮影する。ヴィデオ作品があって22分間の長さだが、それはスライドショー形式でほぼ20年間の自身をテーマにしたスチール写真を2秒間ずつ上映している。ざっと計算して600枚以上の写真が使われている。若いころからの自身を時系列に沿って並べていて、長島の半生が垣間見えるような印象を受ける。
 長島の『背中の記憶』(講談社)を読んだのは7年前になるが、当時こんな風にブログに紹介した。

 始め居間で読んでいたのだが、娘の前で読み続けることができなくて、自室へ下がって短いエッセイを読み終えた。こんなに強い言葉を読んだのは久しぶりだった。およそ間然するところがない。他のエッセイもこの祖母のほか、母、父、叔父、弟、保育園の頃、幼馴染み等々が描かれる。どのエッセイも完成度が極めて高い。
 舌を巻く巧さだ。著者がどんなに写真家として評価が高いとしても、このエッセイのすばらしさには及ばないだろう。少なくとも写真家の余技というレベルではない。私たちはいま優れたエッセイストの誕生に立ち会っている。

 また去年再読したときにもブログに紹介した。

 再読して改めて圧倒された。13篇のエッセイが並んでいる。長島の子供の頃を描いたものばかりだ。「背中の記憶」は古本屋で見たワイエスの絵「クリスチーナの世界」の女性の背中が祖母を思い出させたことから綴られている。ほかに母、父、保育園時代、叔父、弟、初恋、親戚、そして最後にまた祖母が語られる。そんな作者の個人的な関係者のことばかりが語られているのに、この緊張感は何だろう。ときにミステリを読んでいる気分にもなる。
 一篇一遍は長くはない。しかし導入から展開まで舌を巻くほどの巧さだ。文章に隙間がない。名文と言っていいだろう。エッセイだと書いたが、短篇小説だと言っても良い。これはまぎれもなく文学だ。
 なぜ写真家がこんな名文を書くことができたのだろう。経歴を見ると武蔵野美術大学でデザインを学び、その後アメリカの大学院で写真を学んでいる。どこにも文章を学んだ形跡がない。

 本書は現在文庫化されている(講談社文庫)。
 長島は読売新聞の編集委員を務めていると書いたが、一昨日の読売新聞に酒井順子の『忘れる女、忘れられる女』(講談社)の書評を書いていた。その末尾を、「ところどころニヤニヤしてしまうので、電車内ではマスク着用で読みたい」と結んでいた。こんなところにも巧さが表れている。
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長島有里枝、そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々」
2017年9月30日(土)―11月26日(日)
10:00−18:00(木・金は20:00まで)月曜休館
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東京都写真美術館
東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス
電話03-3280-0099
http://www.topmuseum.jp


背中の記憶 (講談社文庫)

背中の記憶 (講談社文庫)