鴎座公演『VIVA DEATH』を見た

 渋谷駅新南口近くのEDGEというスペースで行われた鴎座公演『VIVA DEATH』を見た。イギリスの劇作家サラ・ケインの戯曲を元にした芝居=ダンス=パフォーマンス作品。演出の川口智子のテキストによれば、

「核の惨劇」をテーマとするこの作品は、初稿こそ完成していたものの、サラ・ケイン本人の意思により発表されなかった。"Viva Death"、宙を彷徨うことば。唇の内側で閉じ込められた、愛のことば。決して見ることのできない自らの顔。
"Viva Death"の上演というこの試みには、当然ながら、何度もテキストの不在が立ちはだかる。それは、サラ・ケインの不在でもある。もし、彼女が今42歳だったならば、私は熱心なラヴ・レターを書いて、一緒に作品を作りたいと懇願したかもしれない。しかし、喪失が先にある。私はサラ・ケインの声を聞いたことがない。

 音楽を担当した鈴木光介が登場し、ウクレレを弾き、トランペットを吹き、歌手の絢乃がすばらしいソプラノで歌う。役者の武田幹也と滝本直子、辻田暁がダンスをし、パフォーマンスをする。舞台には浅く水が張られている。役者たちが水にひざまずき濡れながら演技する。
 昨年の舞台『洗い清められ』では舞台に土が敷かれ、土の上に投げられたチョコレートのトリュフを役者が次々に食べていた。水を張り土を敷くのは、おそらく通常の抽象的なダンス空間と差別するためだろう。舞台はほとんど何もないのだが、土や水によって少しだが具体性を帯びるのだ。
 サラ・ケインのテキストが不在ということから、舞台にはストーリーがないように見える。おぼろに悲劇的なものがうかがわれるばかりだ。ところがその舞台が強い緊張感を孕んでいて、見る側の集中感が途切れない。例えて言えば、抽象絵画に似ているとも言えよう。具象絵画が風景や人物、物語を描いているのに対して、抽象絵画は色彩や筆触で絵画を構成し、それが具象絵画と同等の感動を見る側に与える。まさに『VIVA DEATH』は、抽象絵画に類するような見る喜び、感動を与えてくれた。
 抽象的ではありながら、水が張られた舞台で濡れながら演技をする。役者たちによって深い苦悩が表される。最後に背景に吊り下げられていた白いボードに英文が書き綴られる。残念ながら、私にはほとんど理解できなかったが、一番最後に大きく「HELP ME」と書かれる。
 昨年上演された『洗い清められ』では、役者は土の上に投げられたトリュフを20個ほども食べさせられた。それは過食症を連想させた。過食症と拒食症は摂食障害の2つの症状だ。サラ・ケインはおそらく摂食障害に苦しみ、その結果、もしかするとうつ病で亡くなったのかもしれない。HELP MEの言葉が、サラの悲鳴を思わせる。
 『VIVA DEATH』は優れた舞台だった。役者もすばらしかったし、鈴木光介の音楽も良かった。演出の川口智子は佐藤信に師事しているだけあって、みごとな舞台を作ったのだった。