河原宏『日本人の「戦争」』がとても良い

 河原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)がとても良い。河原は1928年生まれ、終戦のときは16歳だった。戦争末期に河原が自分自身に問いかけたことは3点、それは国家とは何か、戦争とは何か、天皇とは何か、だった。3つの問いは1つにまとめることができる、それは「自分はなんの為に死ねるか」だった。その答えを見出したと思った途端に戦争は終わった。
 河原は『日本人の「戦争」』とは何だったのかと考え続ける。『古事記』のスサノオのエピソードを引き、大伴家持長歌から「海行かば」を取り出し、楠木正成の説話に「七生報国」の出典を探し出す。どちらも先の戦争で叫ばれた言葉だ。信長は天下統一のためにそれまでの領地に執着する武士の土地獲得衝動を否定した。しかし旧日本軍は信長以前の武士のモティべーションに復帰したと説く。日本軍が執着した拠点確保主義こそ土地獲得衝動を戦術面に反映したものだと言う。
 12月8日の開戦は、戦争か平和かの選択の結果ではなく、戦争(外戦)か革命(内戦)かの選択だった。8月15日の敗戦も、敗戦か革命(内戦)の選択だった。”革命よりは戦争がまし”で戦争を選び、”革命よりは敗戦がまし”で敗戦を選択した。「ここでも天皇を含む日本の戦争指導層は国体の護持を至上命令とした」から敗戦を選択した。では、その国体とは何か。

「国体」とは単なる抽象的観念ではなく、「半封建的生産関係」つまり土地の所有関係、地主制度と農民に対する地主の支配関係を反映、聖化した概念である。

 こうして地主−小作関係、あるいは土地所有関係を「国体」の名の下に不可侵のものとすることで、当時の天皇制国家に内からの体制変革は不可能となった。したがって国内に蓄積される社会的矛盾、とりわけ農村の窮乏と農民の貧窮が解決されないとすれば、その危機は、外、戦争という形で転化する以外になかった。12月8日の「開戦」不可避を決定づける底辺にも、「国体」と呼ばれる天皇制国家の社会構造があった。

 あとがきを30年以上前、河原のゼミ学生だったという「文筆業」と肩書をつけた堀切和雄が書いている。戦後民主主義を基礎づけた丸山真男と、その8歳下の橋川文三の『日本浪漫派批判序説』を引いて、河原と比較している。

 河原青年は、戦後大多数の人々が飛びついた様々な「主義」めいたものには、少しも心動かされなかった。
 大学教員になってからのことだが、河原は同じ学者たちが安保改定反対のデモに参加するのを、見に出かけはしたが、デモをする人たちの表情を、眺めていた。この人たちは本当に本気でやっているのか? そう疑っていた。
「生きててよかったっていう気持ちはゼロ。皆無ね」。と私に語ったことがある。では何を思って生き、研究を続けたのか。それは、あの戦争の意味を、どんな群れにも加わらず、自分ひとりで、考えたかったから。そうして至った、本書冒頭近くにある言葉「おそらく当時、この戦争とは何なのかをもっとも切実に問いつづけながら生を中断した彼らも、私の説明には納得してくれるだろう」は、だから、重い。河原は生者の変身を信じず、独り死者たちに語りかけつづけ、遂に死者からの返答を得たのだ。

 弟子にこれだけ慕われた師も幸せだろう。
 形式ばったイデオロギー重視の戦争論ではなく、個人の思いに深く根ざしたユニークな優れた仕事を読んだ思いがする。堀切が「準古典」と控えめに言っている。すぐに古典になるだろう。