吉岡徳仁展と高柳恵里の雑巾作品


 東京都現代美術館の『吉岡徳仁−クリスタライズ』を見た。ちらしによると、

吉岡の公立館初の大規模個展として開催される本展では、新作として、音楽を聴かせながら結晶化させた絵画「Swan Lake」、結晶化した薔薇の彫刻「Rose」、7つの糸から生み出される椅子「蜘蛛の糸」などを発表します。またクリスタルプリズムでつくられた建築「虹の教会」など、インスタレーションを含む代表作/国内初公開作品を展示し、その卓越した魅力を探ります。

 とある。白いストローを文字通り無数に積み上げた派手な作品などが並んでいる。しかし、これは美術作品というよりは、むしろ広告のディスプレイと言うのが適当ではないか。モーター・ショーやパソコンの発表会に飾っても何ら違和感がないだろう。というか、そのような場所にこそ相応しいと思う。
 もう一つの企画『うさぎスマッシュ展』の方がまだ面白かった。こちらの副題は「世界に触れる方法(デザイン)」となっていて、21世紀に入ってデザインも大きな変化を遂げていると言い、「社会に対する人々の意識に変化を与えるデザインが今、より重要性を増している」「そのようなデザインの実践に焦点を当て、高度に情報化された現代社会の様々な要素や出来事を取り上げ(……)21組の表現を紹介」すると言う。
 何だか雑多な展示だったという印象が強いが、スプツニ子の映像作品は面白かった。

 それらを見たあとで美術館の一番奥の常設の「MOTコレクション」を見ていたら高柳恵里の作品を展示した部屋があった。そこに高柳の雑巾の作品が展示されていた(上の写真)。雑巾を絞って丸めて、おそらく樹脂で固めたものだろう。何とも不思議な作品だ。部屋の片隅に高柳のテキストが書かれたちらしがあった。そのうち、「雑巾や古布による作品群1997−1998」と題された文章。これが難解な高柳の雑巾作品の解説だった。

作業場の片隅で干からびている雑巾にどうも目がいってしまう時期がありました。(中略)
濡れた雑巾を手に取り、それを触りながら、それが生む形態を見つめる。どのようなかたちにする、と言うこともなく始まり、触る中で偶然生まれたかたちが何かをイメージさせれば、それに従いつつ形作ってみる。ただ、かたち自体はあまり重要でないと思っていました。何かこれで良い、と、手に取る前とは別のものが生まれた、と思えるあたりの状態で、それらは放置され、ただ乾燥され、固くなっていきます。
ここで実感したことは、雑巾が雑巾である、ということではなく、このものは、このように塵やさまざまなものが染みこみ、このくらい繊維が痩せている、などといったような、このものの性質がこのようにしてある、ということでした。(中略)
これらの作品は、こんなものを美術作品の素材にしてみたらどう?といったような、意外性を狙うものであるとか、批判的な意図から、あるいは、雑巾でできたもの、というところに興味を抱くことから生まれたものではありません。
見逃そうとしていたものに向き合い、如何にそれを知ることができるのか、見知らぬものに如何に出会うのか、といったところに作品の本質があると思っています。
「雑巾」は「雑巾」ではなかった、ということをこのようにして知る、そういったことです。

 まだよく分からない。ただ、吉岡徳仁の作品よりもずっと興味深いものだった。