山本一力『味憶めぐり』を読む

 山本一力『味憶めぐり』(文春文庫)を読む。25軒もの美味しい食べ物屋、料理店を紹介している。類書と違うのは、扱う内容の多彩さであろう。江東区南砂のジャムパンから、王者の風格という築地寿司岩総本店までを、同列に論じている。いずれの店の食べ物もきわめて美味なのだ。
 まず有楽町の小洞天のシウマイごはんについて、

 肉の風味がぎゅっと閉じ込められており、ほのかに甘い。この甘さこそ、肉の旨味なのだろう。醤油とカラシが、しゅうまいの美味さの見事な引き立て役である。

 六本木シシリアのアンチョビとガーリックのピザ。

 当時の私は、ピザといえばニコラスしか知らなかった。ゆえにシシリアのアンチョビをひと切れ口にいれたときは、言葉が出なかった。未知の美味さと遭遇した驚きゆえだ。生地が薄い。薄いだけでは言い足りない。極薄でもまだ、表現が違うかもしれない。
 ひと切れを手に持ったら、すぐに口に運ぶべし。ぐずぐずすると、溶けたピザソースが、生地からこぼれ落ちる。なぜなら、ソースののっている生地が薄いから。溶けたソースの防波堤となる、生地のヘリがないから。
 ピザソースには独特の甘みがある。その甘みをアンチョビの塩味が、喧嘩をせず、上手に自分の陣地に引き入れている。

 浅草雷門の初小川のうな重

 ひと口食べて、本当に舌が驚いた。甘さがないのだ。
 甘くないのに深みがある。ゆえにふっくらと焼かれたうなぎの身と争わず、身とタレとが互いに相手を引き立てているかのようだ。(中略)
『初小川』のうなぎは、当たり前だが絶妙の焼き加減である。焼きが達者ゆえ、タレと身が互いに相手を認め、いつくしみ合っていた。

 本当においしそうに描写している。だけど、ちょっと引っかかった。紹介されている25軒のうち、2軒だけ行ったことがあった。銀座の天龍の餃子ライスと万世麺店有楽町店のパーコーメンだ。いや万世麺店は有楽町店ではなく、今はもうない神田店だった。天龍も万世もどちらもうまかったが、それにしても本書の描写は少々過剰な気がした。天龍の餃子について山本は書く。

 皮のもっちりした感じに、舌が大喜びした。前歯で噛むと、皮が割れた。
 餡は肉がたっぷりで、肉汁が口にこぼれ出た。その汁とタレの三昧がからみ合った。
 口を動かすと、さらにもっちり皮の旨味が混ざってきた。

 万世麺店のパーコーメンについて、

 味付きトンカツがのったラーメンの美味さに、わたしは初めてのときから魅了された。
 太い麺とすこぶる相性のいいスープ。卓に置かれた酢を垂らし、好みの味を拵える。
 酢の隣にはコショウがいる。粒々のコショウは、スープとパーコーの旨味をぐいっと鷲づかみにして引き上げてくれる。

 ニューヨークのステージ・レストランの朝食のベーコンは、

 よほど熱せられているのか、たちまちベーコンがジュウジュウと騒ぎだした。

 表現が過剰=オーバーなのだ。言い過ぎている。また、変に具体的だ。擬人化の多いのも気になった。日本橋宇田川のロースカツ定食について、

 和辛子をチョイづけし、ソースにひたして口に運んだら……歯と上あごを総動員してカツの美味さをむさぼる。至福の一瞬がおとずれる。
 付け合わせは、とんかつお約束の刻みキャベツ。しかし宇田川のロースカツには、自家製コールスローがキャベツのわきに添えられている。
 酸味・甘みの按配絶妙なコールスローと、分厚いロースカツを口のなかで絡み合わせる。両者が味を引き立てあい、さらなる高みへと昇華する。それを堪能できるのだ。

 これらの表現のもとは何だろうと考えた。私は山本一力を読むのは初めてだ。山本は人気時代小説家だとカバーの紹介に書かれている。山本に限らず、私はほとんど時代小説を読んだことがない。やっと司馬遼太郎のいくつかと、池波正太郎剣客商売シリーズくらいだ。あやふやな印象で書くのだが、もしかすると細部の過剰な表現は、時代小説に特有なものかもしれない。今まであまり目にしてきた記憶がないのだった。
 本書で紹介されている料理屋には行ってみたいところが何軒もある。過大な期待はしないで、ぼちぼち行ってみようか。