アファナシエフの『ピアニストのノート』を読む

 アファナシエフの『ピアニストのノート』(講談社選書メチエ)を読む。アファナシエフはカバーの紹介によれば、「クラシック界の世界的鬼才ピアニスト」。さらに「音楽とは何か? 音楽を演奏するとはどういうことか? 沈黙と時間は音楽とどのような関係を結ぶのか? 人間と音楽は、どのような関係を結ぶのか?」と書かれている。本書はまさに音楽をテーマに哲学的に語るエッセイなのだ。
 しかしながら、ちょっとだけ「やおい」を連想した。「やおい」とは、ネットによれば「男性同性愛を題材にした漫画や小説などの俗称」で、「山なし・オチなし・意味なし」の頭を採った名前。いやアファナシエフのこのエッセイは「山なしオチなし」だが意味は大いにあるのがちょっと違うところだ。
 アファナシエフは音楽を壊す者たち=凡庸な才能の演奏家たちに対して過激な言辞で攻撃し容赦しない。

 破壊しなければならない偽りの価値は山ほどある。(中略)凡庸な者たちは、流れ作業で音を作りだす。彼らは絶対的な価値を持っている音楽を破壊してしまう。「あなたは彼が凡庸だと思われるのですか? でも、それはあなたの意見でしょう」などとは、私には言わないでもらいたいものだ。演奏技術においては、アーティストの凡庸さは正確に計ることができるのだから。踏みつけにすれば罰せられずにはすまない規範(カノン)があるのだ。演奏の分野には、他の芸術分野にあってはほとんど存在しない絶対的な真理がある。

 アファナシエフはあれこれのピアニストを攻撃し批判する。しかし具体的な名前を出すことはなく、ほのめかすだけなので、それが誰なのか私には分からない。ワニと暮らしてそれを本にしているピアニストがいると皮肉たっぷりに書かれているのは、オオカミと暮らして『野生のしらべ』を書いている女性ピアニスト、エレーヌ・グリモーだろう。

 27歳になってようやくベートーヴェンに手をつけたある早熟の天才ピアニストを知っている。彼が最高度に有名なことは言うまでもない。彼の半ズボン姿は今もみんなに喜ばれている。40男も、母親や先生や30年も前から彼の演奏を聴いている人びとにとってはつねに子どものままなのだ。(中略)こうした永遠の少年たちが、音楽をすっかり小さくしてしまっている。

 この半ズボンのピアニストが分からない。また、ジョイスという名前の女流ピアニストは癌で亡くなったが、彼女の死後、夫が他人の演奏したCDを切り張りして批評家から傑作群とほめそやされたCDを作ったとも書かれている。これも分からない。
 アファナシエフは、無能な演奏家は公衆の面前で演奏すべきではないとまで言う。それは人類に対する罪だと。
 一方、アファナシエフが賞賛するのは、シュナーベルギーゼキング、グールド、ギレリス、ケンプ、ホロヴィッツミケランジェリリヒテルフルトヴェングラートスカニーニ等々だ。
 私はアファナシエフのCD『ブラームス後期ピアノ作品集』をもっているが、それは悪くないと思う。


ピアニストのノート (講談社選書メチエ)

ピアニストのノート (講談社選書メチエ)

ブラームス:後期ピアノ作品集

ブラームス:後期ピアノ作品集