会田誠の『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』を読む

 会田誠の『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』(幻冬舎)を読む。題名が過激なので持ち歩くのがためらわれ、カバーをかけて読んでいた。そのカバーには「日本の知、本の力。丸善」と印刷されている。
 標題の由来となったエッセイは、会田の女性の胸に対する嗜好が書かれている。彼はペチャパイが好きなのに、張りと弾力性を持った巨乳と違って、ペチャパイは触るとフニャフニャしている、そのことが不満なのだ。ペチャパイが柔らかくなければいいと、それで「美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか!」ということらしい。
 しかし題名から想像されるのとは異なり、意外に硬派の論調が語られる。

 明治・大正・昭和初期の頃の日本画は、何となくラファエル前派に一部似ている気がします。反時代という意識をしっかり持った保守性、飽くなき細密描写に代表される画家同士の切磋琢磨、花と女性を偏愛する唯美的感性、少し通俗的な古典文学趣味、そして軽くて薄い画面……やはり両者とも、作品によっては〈偉大〉の域まで高められたイラスト、という気がします。この時代の日本画はもう少し国際的に認知されてもいいんじゃないかな、と僕は思います。
(中略)
 僕は菱田春草の画集を見るのが好きです(僕が持っているのはポケット版ですが)。まず前半にえんえんと続く、朦朧体などの描法の変遷、および古今東西に亘る画題の変遷……。なんという試行錯誤の連続、〈近代日本美術〉の産みの苦しみでしょう。そしてその暗中模索の果てに辿り着く、あの『落葉』の清澄な境地……。僕はここでいつもアドレナリンが分泌されるのを感じます。「すべてを諦めきった後に残った、たった一つのかけがえのない充実……」。僕の頭にはこんな直感的な言葉が浮かびます。ここにはもはや日本や東洋の上っ面だけの美化や荘厳化はなく、しかし西洋への不自然な追従もありません。「これはほとんど日本の、明治の、あの社会システムの〈良心〉が絵になったような絵じゃないか……」。そんな言葉がふと口をついて出ます。明らかにこの時初めて〈日本画〉がこの世に誕生しました。そして盟友横山大観を含めて、この後誰がこの『落葉』を超ええたでしょう。だから僕の最も乱暴な日本画論はこうなります−−日本画は『落葉』に始まり、『落葉』に終わった−−。ページをめくるとアンコールの小曲『黒き猫』があり、その悲しい調べを残して突然幕が下がります。ああ、これは一体なんて画集なんだろう!

 長い引用になったが、会田の優れた批評がここにある。また藤田嗣治村上隆奈良美智との共通点を論じた「藤田嗣治さんについて」もおもしろい。
 素人画家ヘンリー・ダーガーについて、誰かの講演を紹介している。

 学生時代にダーガーに関する講演会を聞きに行ったことがあります。どなたか忘れてしまいましたが、その講演者は途中である奇妙な仮説を語りました。ダーガーは少女を実際に殺したことがあるかもしれない。その可能性は捨てきれない−−ダーガーが青年時代に施設を脱走した頃、その地域で少女の絞殺体が見つかり、その事件は迷宮入りになった−−たしかそんな話だったと記憶します。
 言われてみるとたしかに、ダーガーが描く絞殺される少女は、眼球と舌が飛び出すところなど、妙にリアルな気がします。死ぬまで作ったものを発表せず、人付き合いを避けていた理由もそれならうまく説明がつきます。

 ダーガーの描く少女にはペニスがついていて、だからダーガーは少女の裸を見たことがなかったということになっているのだが。
 いや、会田誠の批評性を高く評価することに吝かではないが、一方会田は朝日新聞のインタビューに答えてこう語ってもいる(11月10日be)。

 −−好んで描く少女のモチーフも変わっていくのでしょうか。
 川端康成谷崎潤一郎のように、少女への趣味は老人の方が強くなるものではないでしょうか。毎年現れる新たなる14歳の少女にときめき続けるんじゃないですかね。自分の死が近づけば近づくほど、一番対比的なものが際だってくるのだから。少女たちは時代や風俗で新たな意匠をまとってきますが、もっと自分の中にある、幻の普遍少女みたいなものを求める方向に向かう予感はあります。

 六本木の森美術館では現在、会田誠個展「天才でごめんなさい」が開かれている(2013年3月31日まで)。


美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか

美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか