片山杜秀『未完のファシズム』を読んで

 思想史研究者、音楽評論家という不思議な肩書きを持つ片山杜秀の新著『未完のファシズム』(新潮選書)を読む。これがとてもおもしろかった。片山には佐藤卓己から「構成と文体の見事さは芸術品」と評された『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)という優れた著書がある。またクラシック音楽を論じた『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング)では吉田秀和賞とサントリー学芸賞を受賞している。
 日本は日露戦争の旅順攻防戦において多大な死者を出した。それを反省して第1次大戦の青島要塞攻撃では大量の砲撃を先行させ、日本兵の死傷者を最小にとどめた。
 その後、日本の軍部は皇道派と統制派に分かれる。皇道派は経済力=戦力に劣る日本は、勝てそうな相手とだけ短期決戦+包囲殲滅戦で戦うとした。だがその皇道派は2.26事件を起こして没落する。
 統制派は計画経済によって日本を「持てる国」に変え、その後「持てる国」アメリカと戦うとした。石原莞爾満州を領有して産業を進め、30年後(1966年)に持てる国となった日本がアメリカと戦うとした。
 皇道派も統制派も勝ち目のないアメリカとの戦争はするべきではないと考えていた。しかし統制派の永田鉄山は暗殺され石原莞爾も失脚する。
 その結果、明確な戦争の思想がないままに太平洋戦争に突き進んでしまう。戦時中の日本陸軍の戦争思想を推進したのが狂信的な軍人中柴末純だった。中柴は玉砕することを主張する。

 中柴によれば玉砕できる軍隊を作ること自体が作戦だったのです。玉砕する軍隊こそが「持たざる国」の必勝兵器だったのです。玉砕できる軍隊を使って実際に玉砕を繰り返してみせれば勝ちにつながる。ゆえに玉砕は、作戦指導部の無策の結果、兵を見殺しにすることではなく、勝利のための積極的な方策だというのです。

 題名の「未完のファシズム」とは何か。明治憲法では三権分立がもっと分立しているという。立法府は二院制で貴族院衆議院は対等、しかも会期は短めで立法府が強力に機能しないようにされている。行政府の長である総理大臣の権限は弱く閣僚の調整役以上の役割は果たせない。しかも枢密院という内閣と対等な組織がある。さらに帝国陸海軍は立法府にも行政府にも司法府にも属していなくて、内閣も議会も軍に命令できない。また逆も真で軍が政治に介入することは少なくても法的にはできない建前となっている。三権と軍の頂点には天皇ひとりがいる。しかし天皇は自分の意思を出さないように教えこまれている。明治憲法が作られた頃は、明治維新の元勲、元老たちがいて、彼らがリーダーシップをとっていた。その明治の元勲、元老がいなくなったときに日本を方向付けするシステムがなくなった。

……統制・弾圧の歴史的事実をもってして、東条独裁だった、日本はファシズムだったという通念が、戦後の日本に根付いていったように思われます。しかし、ファシズムが資本主義体制における一元的な全体主義のひとつの形態だとすれば、強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したと言えるわけでしょうが、実態はそうでもなかった。むしろ戦時期の日本はファシズム化に失敗したというべきでしょう。日本ファシズムとは、結局のところ、実は未完のファシズムの謂であるとも考えられるのではないでしょうか。

 片山は日本陸軍を思想史的に研究することから始めて、本書ができあがったようだ。すると、まだまだこの先が展開されると期待できるのだろう。片山の文章はやさしく論理的だ。片山の著書は、音楽評論も政治思想史も読むのが楽しみだ。
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 以前紹介した片山杜秀の著書はこれら。
片山杜秀の辻邦生論(2009年5月1日)
片山杜秀「音盤考現学」が面白い(2009年4月12日)
片山杜秀「近代日本の右翼思想」(2008年4月24日)


未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)