浦西和彦 編『「酒」と作家たち』を読む

 浦西和彦 編『「酒」と作家たち』(中公文庫)を読む。佐々木久子編集長の雑誌『酒』に掲載された作家たちの酒に関するエッセイを編集したもの。文学雑誌と違って作家たちも気楽に書いている。それだけに軽いものが多く、読み飛ばすには最適だが、それでも作家のゴシップなどそれなりに面白い。中でも印象に残ったエピソードをいくつか。齋藤茂太が「茂吉と酒−−齋藤茂吉のこと」で書いている。

 そして昭和28年2月25日が来る。(中略)午前11時に電話がかかった。父の容態急変の報せだった。すぐに帰宅したが父はすでに死んでいた。(中略)
 東大にお願いした解剖結果は高度の動脈硬化症を中心とした老衰で、父は自己の肉体をとことんまで使い果たして死んだのである。「子規の晩年は実にぎりぎりのところまでその生を無駄なく使った」と父は書いているが、その父自身もやはり同様であった。
 70歳9カ月であった。

 茂吉が亡くなった年齢まで、私はあと6年半ほどである。この後どうしたら、「ぎりぎりのところまでその生を無駄なく使った」と言いうるのだろうか。
 ついで写真家杉山吉良の「周五郎の思い出」から、

 私は大ぜいのもの書きの友達をもっているが、私は滅多に友人を訪ねない。訪ねることが、友人の執筆時間を失わせ、ものを考える時間を妨害することを知っているからだ。
 だから、私が(山本)周五郎を訪ねたのは、6,7回であったかも知れない。車で仕事にでかけた折りなど、横浜を通ることがあると、周五郎の家を訪ねて、玄関をあけて、名刺を置いて、黙って帰ったことも、何回かあった。友情というものは、それで十分に通ずるものと私は信じている。

 杉山吉良さん、あなたは分かっていない。「友情というものは、それで十分に通ずるもの」ではない。女と同じで努力が必要なのだ。だからあなたはモデルに死なれてしまったのではなかったか。
 次に原卓也が「父・原久一郎の酒」で書いている。親子そろってロシア文学者だ。
 卓也が若いときに、

……(江戸川)乱歩先生がいきなりわたしに「卓也君、今日は君が日頃行きつけの店に連れてゆけよ」と言いだした。その頃のわたしはまだ銀座のバーにかよう以前の段階で、当時はやっていた歌舞伎町あたりのアルバイト・サロンなるところがシマだった。女の子がビールを両手でお酌します、というのがキャッチ・フレーズで、しかし実はアルバイトのホステスなど一人もいない、あまり上品とは言えぬ店だったが、仕方がない、覚悟をきめて案内した。父もいっしょだった。ところが店のマスターが乱歩先生と見破ったため、わたしはいつも指名していた女に先生や父を紹介する羽目におちいってしまった。数日後わたしが一人で行くと、女がやけに改まった態度で「ご免なさい、黙っていたけれどあたしには夫も子供もいるんです」と言いだすではないか。つまり、父や乱歩先生を連れて行ったりしたので、女はてっきり、わたしが求婚の対象と考えているものと早トチリしたのである。

 いや同じようなことが私の友人にもあった。彼はあるフィリピーナのホステスに入れあげて、彼女の店に通っていた。その女性が店を変わればついていった。おそらく数百万円は使っただろう。やめろと忠告するのに、いや結婚の約束ができていると言い張った。どこまでしたのか訊くと、店内でキスしただけだと言う。店外デートを誘っても、お母さんを連れて行っていい? と言われて、まだ外で会ったことがないと言う。
 一度クリスマス・パーティーとかに誘われて行ったことがあったが、フィリピン・パブのあまりの下品さに呆れてしまった。
 その後、彼が入れあげていたフィリピン・ホステスが、実は故郷に子供も夫もいることが分かったのだった。
 原卓也と同じじゃんと思ったことだった。

「酒」と作家たち (中公文庫)

「酒」と作家たち (中公文庫)