文春新書「弔辞」から見えるもの

 文藝春秋編「弔辞」(文春新書)を読む。副題が「劇的な人生を送る言葉」。本書は月刊「文藝春秋」2001年2月号、2011年1月号に掲載された「弔辞」から50人分を収録したもの。弔辞をまとめたものは20年以上前に中公新書で刊行されたものに始まり、今まで何冊も企画されてきた。それだけに優れた弔辞はすでに紹介されてしまっている。しかし、弔辞は全国で毎日読まれているから、ネタがない訳ではない。この「弔辞」から見えてくるものがある。
 まとめて読んでみて、良い弔辞というのは心がこもっているだけでは駄目なことが分かった。気持ちは分かるのだが、それが普遍性を持たない。直接には関係のない第三者の心を打つことができない。もちろんレトリックだけでも駄目なのだ。心とレトリックの二つが必要なのだ。
 柄谷行人中上健次への弔辞は良かった。それは部分を紹介することができない。長くはないが、弔辞丸ごと読んでほしいと思う。それでも柄谷は言う、「中上さん、私はあなたと25年間つきあってきました」。柄谷は中上の結婚式の媒酌人をやり、東京の告別式で葬儀委員代表をつとめた。この弔辞は新宮市の中上家で読まれている。
 瀬戸内寂聴宇野千代への弔辞は教えられるところがあった。

 男と女の話をなさる時は、芋や大根の話をするようにサバサバした口調でした。
「同時に何人愛したっていいんです。寝る時はひとりひとりですからね」
 私が笑い出す前に厳粛な表情で、
「男と女のことは、所詮オス・メス、動物のことですよ。それを昇華してすばらしい愛にするのは、ごく稀(まれ)な選ばれた人にしか訪れない」
 とつづけられました。

 黛敏郎に対する千葉馨の言葉は哀切だ。「黛、」と呼びかけている。

 黛、なぜ先に死んだ。僕は、僕が死んだときに骨を拾ってくれるのは君だと思っていたのに。

 将棋の羽生善治のライバルだった村山聖に対してはその父村山伸一が語る。

 入院すると名札を掛けぬこと、生け花はいらない。時計を三つ自分がどのような体勢になっても見える位置に置いてくれ、(中略)
 病床ではとにかく時間を常に気にしていました。今日は何日で今何時何分なのか。それが自分自身の生きていることの証しであるかのように、それは死の直前まで続きました。平成10年8月8日午後0時11分、29歳の聖の時計は止まりました。

 佐々木良作への中曽根康弘の弔辞、小渕恵三への村山富市の弔辞、橋本龍太郎への小泉純一郎の弔辞、政治家の弔辞は漢字が多く、ページが黒く見える。
 宿澤広朗への奥正之の弔辞は典型的な企業人のそれだ。宿澤はラグビーの日本代表監督であり三井住友銀行の重役だった。弔辞を読んだ奥は同じ銀行の頭取だ。企業人は故人の仕事面での業績をたたえ、出世していった歴史を辿ることで故人を悼むこととする。それは企業内では意味を持つが、その外ではどの程度の共感が得られるのだろう。
 堅物だった企業小説の作家城山三郎に国民的エロ作家渡辺淳一が弔辞を読む。愛妻を亡くした城山に渡辺が再婚を勧めて1枚の写真を見せた時のエピソードが語られる。

 同じように案じられていた、講談社の佐和子社長ご紹介の女性で、城山さんより一廻り近く若い、素敵な女性でした。
 しかし城山さんは、「いや、結婚する気はない」といわれましたが、しばらくその写真を眺めているので、断られても多少は気があるのかと思っていました。
 すると突然、「この人、君のお古じゃないの?」ときかれて、仰天しました。
 まさか、「僕がそのような人を紹介するわけがないでしょう」と、驚き呆れたのを、昨日のことのように思い出します。

 女性のことをお古だの新品だのと何という失礼な話だろう。この点では二人とも失格だ。二人は正反対の性格だがなぜか気が合ったという。しかし城山は新田次郎のことは好きになれず、ヨーロッパへの講演旅行で同行してもほとんど口をきかなかったという。
 保守派の佐藤優の左翼の米原万里への弔辞も印象的だった。柳家小三治が師匠の柳家小さんへの弔辞で、火葬した後の師匠の骨が立派で太かったことを誇っているのも良かった。
 タモリ赤塚不二夫に対して「私も、あなたの数多くの作品のひとつです」と言っている。

弔辞―劇的な人生を送る言葉 (文春新書)

弔辞―劇的な人生を送る言葉 (文春新書)