「DOMANI・明日展2009」の吉田暁子

 国立新美術館で「DOMANI・明日展2009」が開かれている。これは、文化庁が海外へ派遣した若手芸術家たちから10人ほどを選んで毎年開催しているもの。そういう意味では実力が認められた作家たちだ。
 その中でも特に吉田暁子の作品が見たくて行ってきた。彼女に与えられたスペースは奥行き10メートルくらい、横が数メートル、高さがこれも数メートルほどある。
 手前右と奥の左右に葉がない枝だけの樹木を立ててある。樹木が立てられている台の下、床の上に丸い鏡が置かれている。手前の樹木の枝先から天井に細い糸が伸びている。右奥の樹木は柳だろうか、枝垂れた枝の先から下の鏡に金属の細い紐が垂れ下がっている。左奥の樹木の枝からは四方に糸が伸び、天井に伸びた紐の途中に何枚もの薄い紙切れが付けられている。空中に漂っているみたいに。
 左の壁面には十数センチ四方の板に紗が貼られ着彩されている。それが天井近くまで散らされている。正面の壁には10センチ四方くらいの紙に抽象的なドローイングが描かれ、やはり天井まで散らされている。右の壁にはこれまた小さな4曲の屏風のような形のものが6組並べられている。屏風とは凹凸が逆になっていて、表面に人物像のドローイングが描かれている。
 それらを見渡せる一番手前に円形の赤い敷物が置かれ、その上に木の椅子が置かれている。ただ椅子は壊れていて、糸で修繕されているが座ることはできない。
 作家の言葉で、これ全体が「ひとつのキャンバス」だと書かれている。そのことはよく分かった。平面の作品ではなく、この空間が吉田の作品なのだ。
 吉田暁子は昔から難しい作品を作ってきた。すごい才能を持った作家であることは間違いないと思う。しかし彼女はちょっと類がない理論家でもある。おそらく吉田は素朴に作品を制作することができないのだ。今回の作品も厳しい理論的な裏付けがあるのだろうことは想像できるものの、どのように評価したら良いのか戸惑ってしまう。彼女のような概念芸術は必ずしも美しい必要はないのだが。
 誰か吉田暁子論を書いてくれないものか。