喬木村、河岸段丘と縄文遺跡



 写真は長野県南部の飯田市から真東を見た風景。天竜川が北から南に向かって流れている。写真では左が川上であり北の方向になる。画面の下方に見えるのが天竜川で、手前は水田地帯となっている飯田市の平地だ。正面が喬木村(たかぎむら)、私が生まれ育った故郷の地だ。喬木村は面積のほとんどを山地が占め、天竜川に沿った幅1kmほどの平地と、天竜川に流れ込む支流の作る谷間とにわずかの耕地を持っている。特徴的なのは河岸段丘が発達していることで、4段ほどの段丘ができている。
 天竜川に沿った平野部が幅1kmほどあり、ここが水田地帯となっていた。いまでは水田転作のため工場や農協直営のマーケット、学校などが建てられている。そこから10mくらい高くなった幅200〜500mくらいの平地に人家が建ち並び県道が走っている。人家は専らこの部分にのみ集中している。地名も「町」だったりする。江戸時代の旗本三千石知久様の城下町だったところ。写真中央の人家が建て込んだ場所は、天竜川の支流「小川川」の小さな扇状地。小川川からは小さな小さな柘榴石(アメジスト)が採集できる。
 この上の段丘はさらに数十m高くなっている。写真の右側の小山状のところだ。ここにある幅が半kmほどの平地はしかし水の便に恵まれず以前は桑畑、現在はりんご園になっている。上の写真に続く2枚目の写真の中央にちらちら見える白い建物があるところがりんご園や、最近は住宅が建てられている「伊久間原」だ。

 伊久間原には縄文時代の遺跡があり、縄文式土器や矢じりがが今でも豊富に出土して縄文時代の集落跡と見られている。さらにその上に「大原」と呼ばれる段丘があり、ここも今ではりんご園になっている。その先は伊那山脈に続いていて、伊那山脈の向こうには上村のある谷があり、その谷は赤石山脈に通じている。
 喬木村天竜川の左岸だが、線対称をなしている右岸の飯田市喬木村に比べれば傾斜が緩やかで幅も喬木村の何倍も広く、市街地ができるだけのことはある。天竜川を挟む谷を伊那谷といい、谷の幅から見ると日本離れした極めて大きな谷らしい。もっとも飯田市の南は伊那谷が急速に狭まり天竜峡という両側の谷が迫った観光名所になっている。しかし私は行ったことがないので、これ以上詳しく紹介することができない。