吉松隆の武満徹批判

 武満徹が亡くなったとき、若い世代の作曲家の吉松隆が「レコード芸術」に次の文章を書いていた。亡くなった武満を皆が絶賛していたとき、この吉松と湯浅譲二の批判が印象に残った。長いけれど全文引用したい。

吉松隆「11月のカナリアは歌を歌いたかったのか? ーー武満徹のポップ・ソングを聴く」


 武満さんの訃報を聞いた時、彼がしきりに「好きな作曲家はポール・マッカートニーだ」とか「ガーシュインみたいな作曲家になりたかった」とか言っていたということを思い出していた。
 最後のCDが石川セリの歌うポップ・ソング風のアルバムだったのも象徴的だったが、二十世紀を代表する超一流の大作曲家「トオル・タケミツ」も残念ながらメロディ・メーカーとしては一流ではなかったことを最後に証明する結果になったのは少し悲しかった。
 武満さんは、そもそも音楽に目覚めたのは防空壕で聴いたジョセフィン・ベイカーの歌だというし、戦後はアメリ進駐軍のキャンプでのアルバイトでジャズを身に染み込ませ、その種のバーバー・ショップ・コーラスが彼のハーモニーの原点になったという話を聞いている。若いころアメリカ留学の機会があった時「デューク・エリントンについて学びたい」と本気で言ったそうだし、ジョージ・ラッセルの「リディアン・クロマティック」による作曲理論をかなり研究していたそうだから、確かに、武満さんは日本のガーシュインあるいは日本のポール・マッカートニーになる可能性は十分あったのだ。
 なにしろ平気で無調の音楽を聴き続けられる「特殊な耳」を持っている現代音楽作曲家たちの中で、武満さんの耳は「普通の音楽」を聴く耳を持っていた。その証拠にデビュー作《弦楽レクイエム》では、その「歌」への指向がまだギリギリと軋みながらも残っている。彼は歌いたかったのだ。それなのに歌わなかった。歌わない時代が到来していたからだ。それが彼の生きた「前衛の時代」だった。
 そう。あの頃は日本列島全体が「開発」と称する国土破壊や「産業」と称する大気汚染に明け暮れていた。新しさをを得るために国土から大気まで破壊する時代なのだから、音楽の楽しさを破壊するくらいなんでもなかったのだ。そして、戦後日本の外国コンプレックスをそのまま直輸入するかのように「前衛音楽」が入ってきた。「あと十年したら豆腐屋の小僧も12音でラッパを吹いて豆腐を売りに来るようになる」と本気で信じている作曲家がいた。そんな時代だったのだ。
 私が最初にタケミツ・サウンドを聴いたのは、まさにそんな時代の真っ只中の1964年の《テクスチュアズ》という作品だった。しかし、あの美しく混沌としたトーン・クラスターのクレッシェンドの最後にフワッと「メロディ」の断片が浮遊した時、私は武満さんの悲しげな「固定観念(イデー・フィクス)」を聴いたような気がした(それは後に、私自身の作品《朱鷺によせる哀歌》にエコーすることになる)。あれはあの暗黒時代には、隠れキリシタンが仏像の中にマリア像を隠しているような禁断の響きだったのかもしれないけれど。
 それはちょっと考えれば誰でもすぐわかることだったのだ。もし「普通の音楽を聴く耳」を持っているのに現代音楽の作曲家などになってしまったら、「音楽が聞こえなくなる耳」を持ったベートーヴェンのように苦悩するに決まっているのだということは。
 そもそも「音楽」は人間という生物の「音に反応する感覚」の上に成り立った行為なのだから、感性を切り離して知性で作る音たちは「音群」ではあっても「音楽」ではない。「音楽」の領域を極めるための実験として「音群」を知性で制御してみようと試みるのは勝手だが、それは「音への試み」ではあっても「音楽」ではないのだ。
 ところが、この一般社会から遊離した実験行為がその「芸術性」を振りかざして逸脱し、大衆の支持を得られないのを逆手にとって一般の音楽を大衆音楽とか娯楽音楽と呼んで低いものと見なし始めると、この弱小集団は「現代音楽」という名のファッショのカルト教団化してゆく(この思考がが生みだした最近のおぞましい例を私たちは知っている)。
 武満さんが、現代音楽のこのファッショ・カルト化に反感を持ちながらも結局は終生「現代音楽教」の大幹部であり続けたのは、ソヴィエト政府に反感を持ちながらも結局は終生国家権力サイドの御用作曲家の地位にあり続けたショスタコーヴィチを思い起こさせて、作曲家もまた人間であるということを悲しく思い知らされる。
 そのあたりのことについて、私はものわかりよさそうな顔をして理解したいとは思わない。いくら知性がたわごとを思い付いても感性はごまかせないはずだし、音については人一倍鋭敏で繊細な感性の持ち主だったはずだ。それなのに彼は「現代音楽」の一線で活躍し続け、ご丁寧にも海外の「現代音楽」を紹介する任まで買って出て、「先鋭的な音楽芸術を社会に認知させるべく働く知性的な文化人」を演じ続けた。その矛盾に耐えた偉大なる精神力には驚嘆するしかない。その苦悩は、たぶん耳が聞こえなくなったベートーヴェンの苦悩に匹敵するに違いない。私はそう思う。
 そんな武満さんの作品が80年代を境に甘く退嬰的なサウンド指向に片寄っていったのは、彼自身が本来求めていた「音楽」をそういったストレスを振りきって書こうとした証だった。それは60年代の名作《テクスチュアズ》で既に「歌」を憧れとして秘めていた武満さんにとっては当然の帰結だったのだ。
 しかし60年代70年代と作曲家の一番脂の乗りきった時期にメロディを書かなかったツケは厳しい。甘いサウンドは書けるようになったが、その「核」となるメロディだけはどうしても書けなかったのだ(訃報を聞いて以後、彼の残した多くの作品を聴き直したうえでそう断定せざるを得ないことは、彼を敬愛し畏敬しながら作曲家を志した私にとっては悲しくつらい)。
 確かに、若いころから書き続けてきた映画の音楽や劇音楽のジャンルで、彼はいくつかの「メロディ」を書いている。その中のいくつかは「現代音楽の作曲家」としては異例の美しい旋律の瞬間を聴かせる(歌では《死んだ男の残したものは》、映像では《未来への遺産》が印象的だ)が、ほぼ同時代のこのジャンルの名手たち例えば冨田勲宇野誠一郎などの天才的メロディ・メーカーたちとは比べるべくもなく、團伊玖磨芥川也寸志が童謡で聴かせたシンプルさや、現代音楽界の同僚である松村禎三や林光あるいは湯浅譲二が映画やTVの音楽で見せた見事なメロディ作法にも残念ながら達していない。
 昔から口ずさんできたポップ・ソングをギターにアレンジした《12の歌》などはその前後の作だが、彼はどんな気持ちでこれらの楽譜を書いたのだろう。ジャズへの憧れ、ポップスの甘い響き、ノスタルジックに心を震わすメロディ。完ぺきなサウンド・コントロールによる見事な自己愛を聴かせる美しいアレンジだが、たったひとつ、「メロディ」だけが彼のものではないのだ。
 武満さんの死後、FMの番組でその中のひとつの《オーヴァー・ザ・レインボウ》を若いギタリストが弾いたCDをかける機会があった。その時、その小さな一曲が武満さんの心を象徴しているような気がして、なぜか涙が出てきて仕方なかった。
 蛇足になるかもしれないが、昨年イギリスで私の交響曲を録音した時、指揮者である若い世代の藤岡幸夫氏とポップスの話ばかりをしていたのを思い出す。ビートルズ世代以後の私たちにとっては、交響曲もロックンロールもジャズもエスニック音楽も、「音楽である」という点で同義なのだ。そこには、音楽を差別化するファッショも限定されるストレスもない。
 武満さんもそういう時代のそういう世界で音と戯れて欲しかった。そうしたらカナリアはきっと歌ったに違いない。「11月の階梯の歌」や「ドーリア旋法の地平線の歌」や「星型の庭に降りた鳥の歌」を……。
        (レコード芸術、1996年8月号)

 同じ頃、湯浅譲二は武満のオーケストレーションはいつも同じだと批判していた。
 私が武満の講演を聞いたとき、最近はブラームスビオラソナタが一番いいと思って聴いているんだけど、こんなことを言うとまた若い連中から反動的だと批判されるだろうと苦笑していた。