幽草さんはわが義父、1924年生まれで早稲田大学在学中に学徒出陣で中国戦線に投入された。終戦後大学に戻り、卒業後長野県で教職に就いた。趣味で俳句を作り『雲母』に属していたが、『雲母』の終刊とともに結社に属することをやめ、個人的な集りでのみ発表していた。私宛の手紙にたまに俳句を書いてくれた。それを勝手にまとめてみた。なお本名は曽根原正次という。
浅春のセキレイメタボ釜飯屋女正月帰命頂禮嬶如来
溜息はつくまい負けまい寒波来
夏祭お捻がとぶフラダンス
母の日や四たりの母と呼びし人
夏の蝶高くとべるが嬉しくて
いとおしや働きアリはみんなメス
老残と言っぱ樹上の裂け柘榴
蠟梅や庫裏の窓より漏るる湯気
やはらかき掌(て)となり給ひ生身魂
あの時とおんなじ部屋の吊忍
復員や箸立つ雑炊熱かりき
昼ね覚めふっと悟りのごときもの
羽子板も凧も床の間に飾られて
手を出さぬことが手伝ひ年用意
おおくさめ侮りがたき肺活量
煤籠り出る幕なきも老の得
弾まねば弾まぬもよし年迎ふ
初鳩や止め石の縄解きたくて
ちゃんちゃんこ羽織れば忽ち昭和初期
座敷犬枯野を駆くること知らず
寒葵嬌声浴びることもなく