高橋三千綱『作家がガンになって試みたこと』を読む

 高橋三千綱『作家がガンになって試みたこと』(岩波書店)を読む。高橋が岩波書店のPR誌『図書』に2017年4月号から1年間連載したもの。途中から連載を読み始め、単行本になって通して読んだ。現在70歳の高橋は34歳の時に十二指腸潰瘍になり胃の3/4を切除された。40代半ばで受けた検査で血糖値が高いことを指摘され、糖尿病の境界線上にあると言われた。しかし相変わらず毎晩酒を飲み続けた。数か月後検査入院した病院で血糖値の数値が境界線をはるかに超えていることが判明した。
 50歳になる前に2度検査入院した。50歳代後半にまた検査入院すると、糖尿病の数値=血糖値が320mg/dLを超えていた。基準値は70から109である。だが退院すると相変わらず酒を飲み続けた。いつ頃からか酒を飲むとふらつくことが多くなった。
 糖尿病専門医を紹介されて行った都立府中病院で、アルコール性肝炎で入院が必要だと言われた。61歳だった。酒量は半分にしたが入院もシカトし、次の呼び出しにも応じなかった。ゴルフクラブで顔を合わせた家庭医のM先生が検査を受けるよう言うので、採血を受けた。γ-GDPが3954だった。こんな数字初めて見たと先生が言った。普通その上限値は79で、1000は入院、1500はアルコール依存症、2000以上はアル中だという。1か月後の再検査が4026で、先生を震撼させた。死んでる人の数値だという。武蔵野病院の肝臓専門医を紹介された。検査の結果肝硬変になっていると診断された。62歳だった。毎日インシュリンを注射して断酒しないと4カ月で死ぬと宣告された。高橋はその医師に縁切り状を書いた。そしてその後半年間は完全に禁酒した。インシュリンは打っていて、4000を超えていたγ-GDPは230、血糖値も120と劇的に改善した。肝機能の数値も基準値以内に収まった。それで禁酒を解いて以前にも増して飲酒が激しくなった。
 東日本大災害救援隊に参加しようと思い、その前夜飲み過ぎて倒れ数週間家のベッドで寝ていた。インシュリンが切れたが家庭医に頼むのがためらわれ。紹介されてT大学病院で診察を受けた。担当のS医師は信頼できたが、3か月後に転勤になってしまった。後任の担当医師との相性が最悪だった。診断書を一瞥した後任の医師はのっけから横柄な態度で「肝硬変のくせに酒を飲む患者の面倒はみれない」と喧嘩腰に言い出した。高橋は「あんたは馬鹿だろう」と言って診察室を出た。
 64歳になったとき、再びT大学病院の消化器内科担当のH・W医師の診察を受けた。そこで食道静脈瘤の検査を受けた。食道ガンだと言われた。まず食道静脈瘤を取る手術を3回受けた。ついで胃の静脈瘤の手術をすると言われたが、血糖値が高いので手術は無理だから血糖値を下げるのが先決だとされた。血糖値が下がると退院するよう言われた。胃の静脈瘤の手術について問うと、糖尿病の担当医は分からないという。H・W先生は遅い夏休み中だという。高橋は退院する。
 自宅で療養しているときに記憶がなくなり、2日間意識が混濁し昏睡状態になった。救急車でT大学病院へ運ばれた。現れた救急担当医は養老院へ行けと言った。高橋が不明瞭な言葉で肝性脳症だと言ったのを聞いて救急病棟へ運ばせた。採血の結果アンモニアの値が180(基準値は89以下)だった。そこで高アンモニア血症を低める点滴と浣腸をされ、意識朦朧のなかで2日間を過ごした。

 これで2月から続いた食道静脈瘤の発見、食道ガンの宣告、3度の食道静脈瘤の手術、内視鏡での食道ガンの手術、肝性脳症での入院、と7カ月に及ぶ戦いに一応のピリオドを打つことになったのである。

 65歳のときH・W医師から、胃にもガンがふたつ見つかったと言われる。手術が必要だと言われたが、高橋は断る。ここまでで約半分である。高橋の壮絶な闘病記はまだまだ続く。再生医療に大金を投じる。サンフィールドクリニックの幹細胞治療に450万円を支払う。しかし効果はなかった。
67歳のときに娘が樹状細胞ワクチン療法というのを見つけてきた。セレンクリニックの医師は2度の検査をして、樹状細胞ワクチン療法をするつもりになっていた。医師が退室するのと入れ替わりに入ってきた美人看護婦が、治療効果が期待できないからやめろと言った。費用も1回200万円もかかると。それで高橋はその治療を受けることを止めることにした。
 最後に高橋は書く。


 「ほったらかし療法。楽天家はガンを殺す」

 今まで高橋三千綱の小説を読んだことがなかった。なにか読んでみよう。