島薗進・橋爪大三郎『人類の衝突』を読む

 島薗進橋爪大三郎の対談『人類の衝突』(サイゾー)を読む。雑誌『月刊サイゾー』に2015年に連載したもので、副題が「思想、宗教、精神文化からみる人類社会の展望」というもの。知人から勧められて読んだ。島薗は宗教学者、橋爪は社会学者で、この二人の対談はきわめて贅沢な企画だろう。主に宗教を中心にして対話を行っている。
 ざっと見出しを拾うと、「キリスト教徒の世界支配」「イスラム教と仏教とキリスト教は何が違うのか?」「宗教としての国家神道天皇の神聖性」「20世紀の世俗化と21世紀の宗教回帰/今、人々はそこに何を求めるのか?」「現代社会に通底する宗教が持つ普遍性の意義」となっている。
 「宗教としての国家神道天皇の神聖性」の章で島薗が言う。

 日本の近代国家は、神聖な天皇を頂く神道国家という特徴を持っていた。これは1945年にGHQの指令で解体されたことになっていますが、実はその指令の主眼はアメリ風の国家と教会の分離でした。つまり国家と神社の特別な関係を切り離して一般の宗教団体と同じものにしたということですが、皇室神道と結びついた天皇崇敬については天皇人間宣言で済ませてしまった。制度的に実効性の薄い措置しか取っていないわけです。戦後は大日本帝国憲法下よりずっと立憲民主主義のほうへ向かいましたが、皇室の神聖性は残されつづけた。したがって、今でも天皇の神聖性を柱にした「美しい日本」という理念は、強力な政治的ビジョンとして生き続けている。「美しい日本」は国体論の焼き直しという理解が必要だと思います。
(中略)
 この宗教的な天皇崇敬の要素が現行の日本国憲法体制の下にも存在するということは、ほとんど認識されていません。明治維新のときに抱えていた弱点が原因で立憲政治が崩れ、戦争に失敗したから、それを日本国憲法で是正したという経緯が自覚的に再認識され捉えられていない。これが現代日本の大きな問題点です。

 島薗と橋本の興味深い意見が交換されるが、いまいち深まっていかない。対談という形式のためか、賛成できないがここではこれ以上触れないみたいな結果に終わっている。そういった論争は粗雑になりがちな対談ではなく、紙上での論争がふさわしいのかもしれない。改めて二人の著作を読んでいってみよう。