久保田万太郎『浅草風土記』を読む

 久保田万太郎『浅草風土記』(中公文庫)を読む。浅草をめぐるエッセイを集めたもの。久保田は明治22年東京浅草生まれ、昭和38年に亡くなっている。小説のほか戯曲を書き、岸田國士らとともに文学座を創立した。
「雷門以北」が昭和2年の作。そこで10年前の浅草を偲んで書いている。それも路地ごとにどんな店があったかなど実に細かい。住人の動向にも詳しく触れている。「吉原附近」と「続吉原附近」がともに昭和4年の作。「墨田川両岸」が昭和10年。これは短い断章でできている。その冒頭の「吾妻橋」を全文引用してみる。

 吾妻橋に住むわれわれ位の年配のものは、吾妻橋の、いまのような灰白色の、あかるい、真ったいらな感じのものになったことをみんな嘆いている。なぜなら、かれらの子供の時分からみつけて来た吾妻橋は、デコデコの紅梁をもった、真っ黒な、岩畳をきわめたものだったから。……
 ということは、雷門に立って遠く吾妻橋をみるとき、つねにその真っ黒な、岩畳をきわめたものが、その鬱然たる存在が、郵便局のまえの人波のかなたに、せせッこましくその行くてを遮っていたのである。……どんなにそれが、そのせせッこましさが、かれらに、浅草めぬきの部分の「名所的風景」を感じさせたことだろう。……
 勿論、この場合、「かれら」という言葉の代りに「わたくし」という言葉をつかってもすこしもさし支えないのである。

 同じく「百花園」も全文引く。

 夏、日ざかりに、しばしばわたくしは百花園を訪問する。そして、蓮の葉の一ぱいに、岸よりも高く犇めきつつもり上ったあの池のまえに立つ。
 このときほど、わたくしに、「もののあはれ」の感じられることはない。

 こんな調子だ。洒落もきらめきも感じられない。裏表紙の惹句には「不朽の浅草案内」とあったが。